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井沢氏vs呉座氏 ブログトップ

週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【進化心理学的な説明】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

なお、この記事は血液型とは直接関係がありません。

その後に、井沢-呉座論争は意外な展開を見せていますので、私自身の備忘録として書き留めておきます。次は、掲載誌の時系列順の一覧です。

【井沢元彦氏】
・5月7日発売 週刊ポスト5月17/24日号
 逆説の日本史「令和」改元記念
 井沢元彦氏 vs 本郷和人
 歴史研究家よ、行き過ぎた実証主義にとらわれるな!
(東京大学史料編纂所教授 本郷和人氏との対談)

週刊ポスト 2019年 5月17日・24日号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 5月17日・24日号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/05/07
  • メディア: Kindle版

【呉座勇一氏】
・5月10日発売 中央公論6月号
 歴史学の研究成果の重みに敬意を 俗流歴史本と対峙する
(中央公論社は呉座氏のベストセラー「応仁の乱」の版元)

中央公論 2019年 06 月号 [雑誌]

中央公論 2019年 06 月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/05/10
  • メディア: 雑誌

【井沢元彦氏】
・5月27日発売 週刊ポスト6月7日号
・6月3日発売 週刊ポスト6月14日号
(いずれも本文中に呉座氏への反論がある)

週刊ポスト 2019年 6月7日号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 6月7日号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/05/27
  • メディア: Kindle版


週刊ポスト 2019年 6月14日号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 6月14日号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/06/03
  • メディア: Kindle版

【呉座勇一氏】
・6月13日公開 現代ビジネス
「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る
 井沢元彦氏の批判に答えて

goza_gendai.JPG

ここでは、「現代ビジネス」での呉座氏の反論について考察します。

呉座氏の反論1 安土宗論
主旨は次のとおりです。

・井沢氏は逆説1227回[5月27日発売 週刊ポスト6月7日号]で、二次史料である『安土問答実録』よりも、一次史料である太田牛一の『信長公記』やルイス・フロイスの『日本史』の方が信頼できる、と反論している。だが『信長公記』や『日本史』は一次史料ではない。
歴史学における一次史料というのは、事件を見聞した当事者が事件発生とほぼ同時に作成した史料のことである。
『信長公記』は後に編纂された二次史料である。フロイスの『日本史』も同様に二次史料である。このような基本的知識すら持っていない人と史料解釈をめぐる論争をしても不毛である(後略)

確かに、一次資料、二次資料の「定義」については、呉座氏が正しく井沢氏は間違っています。
問題は、呉座氏は「一次資料」「二次資料」の定義と、井沢氏の主張「信長公記は(一次資料だから)信用できる」を(意図的に?)混同しているらしいことです。もちろん、「信長公記」が一次資料でないことと、その信頼性は別の問題です。
たとえば、Weblioにはこうあります。

二次史料は、一般に一次史料より重要性が劣るが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らない。例えば、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵の『信長記』はいずれも織田信長に関する二次史料であるが、前者が高い信頼性を有していると考えられるのに対し、後者は史料としての価値はほとんどないとされる。

なお、井沢氏の元々の主張は、4月20日の記事に書いたとおりです。

この点について、呉座氏の反論(=安土宗論は八百長である)と井沢氏の再反論(=断じて八百長ではない)は、5月27日発売の週刊ポスト6月7日号にあります。要旨だけ紹介しておくと、

呉座氏の反論

・井沢氏は歴史学者でも無いくせに口を出すな
・東洋大学教授の神田千里氏は著書『戦国乱世を生きる力 日本の中世11』(中央公論新社刊 2002年)で、『信長公記』と『安土問答実録』の双方を活かし、両論併記的に叙述している。(「井沢元彦氏の『公開質問状』に答える」本誌[週刊ポスト]3月29日号→この部分はすっかり見落としていました[たらーっ(汗)]

戦国乱世を生きる力   日本の中世〈11〉

戦国乱世を生きる力 日本の中世〈11〉

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2002/09
  • メディア: 単行本

井沢氏の再反論

・公開討論の場の不公正な判定で「宗教団体」を「敗北」させればその団体をコントロールできるなどと考えるのは正気の沙汰では無い。
・仮に八百長説が正しかったとすると、法華経の「上層部」は不正に屈して信長への「降伏文書」にサインしたことになる。
・だったら、必ず不満を抱く人間が反乱を起こすはずである。しかし、この上層部の措置について反乱は起こらなかった。
・だから、討論で負けたことは残念ながら(公開されていたこともあり)認めざるを得なかったというのが合理的な解釈である。

私は、井沢氏の見解が正しいと思います。
なぜなら、今回の井沢氏と呉座氏の「公開討論」で、歴史学の最高権威とも言える「東京大学史料編纂所教授」の本郷和人氏が井沢氏寄りの態度を見せても、呉座氏は従っていないからです(苦笑)。

ただし、これでは納得しない人もいるでしょうから、私が決定的な証拠を出しておきましょう(笑)。

呉座氏の主張は、「一次資料」の方が「二次資料」より信頼性が高いということが無言の前提となっています。
なぜなら、達筆の毛筆で書かれたような歴史的な「一次資料」を読めなくともいいというなら、歴史学者と在野の歴史研究者の立場は差がなくなって平等になってしまうからです。
言い換えれば、「二次資料」と「一次資料」の信頼度が変わらないとするなら、氏の反論の前提が崩れてしまうことになります。

では、呉座氏の「安土宗論八百長説」の根拠は何でしょうか?
これは既に書いたとおりで、東洋大学教授の神田千里氏の著書『戦国乱世を生きる力 日本の中世11』です。

東洋大学教授の神田千里氏は著書『戦国乱世を生きる力 日本の中世11』(中央公論新社刊 2002年)で、『信長公記』と『安土問答実録』の双方を活かし、両論併記的に叙述している。(「井沢元彦氏の『公開質問状』に答える」本誌[週刊ポスト]3月29日号)

ところで、神田千里氏の『戦国乱世を生きる力 日本の中世11』は何次資料でしょう?
『信長公記』は二次史料、『安土問答実録』は一次資料ですから、神田千里氏の著書が二次資料であることは確実です。
つまり、歴史学者が書いたなら二次資料でも信用できるということですから、「一次資料」だからといって必ずしも「二次資料」より信頼性が高いとは言えないというのが呉座氏の見解ということになります。

ところが、一次資料である『安土問答実録』について、井沢氏はこう書いています。(逆説の日本史第10巻)

法華宗が書かされた「詫証文」には[『安土問答実録』の著者とされる安土宗論の当事者である]日淵という名が載せられていない

ということですから、この一次資料の信頼性は???です。

つまり、呉座氏の主張の根拠はもっばら二次資料に頼っていて、一次資料の信頼性もチェックしていないということです。

呉座氏には少々失礼な言い方になりますが、開いた口がふさがらないとはこのことです![バッド(下向き矢印)]

余談ですが、歴史資料に限らず、呉座氏は一次資料の信頼性をチェックしていないのかもしれません。お暇な方は、「山崎行太郎」「呉座勇一」「バッシング」で検索してみてください。なお、情報の信頼性は各自ご判断ください。

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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけのおまけ②】 [井沢氏vs呉座氏]

しつこく、前回の続きです。

なお、この記事は、直接血液型とは関係がありません。

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 雑誌

もう一度、週刊ポスト4月19日号の呉座勇一氏の記事『井沢元彦氏の「反論」に答える』を読み直してみました。

要旨は、p115の小見出しにもあるように、『7世紀の「首都」は移転していない』です。
その根拠は、最近の発掘調査の結果、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮は、建物の建て直しや土地の造成工事はあったにせよ、同じ場所にあったということになります。

正確を期するために、p115から少々長めに引用し、それぞれを検証していきます[冒頭の数字は便宜的に私が付けました]。

1. 舒明天皇以降、藤原京が完成するまでの間、難波遷都・近江遷都するという一時的な例外があるにせよ、天皇の宮は基本的に同じ場所[飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮]に存在し続けた。

では、舒明天皇から藤原京までの「天皇の宮」は具体的にどこにあったのでしょうか? 確認するため略年表を作ってみました。
なお、ソースはWikipedia、仁藤敦史氏の「都はなぜ移るのか」、そして井上光貞氏の「日本古代の王権と祭祀」で、 赤字は飛鳥岡本宮とは違う場所です。

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 仁藤 敦史
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/11/21
  • メディア: 単行本

日本古代の王権と祭祀 (歴史学選書 (7))

日本古代の王権と祭祀 (歴史学選書 (7))

  • 作者: 井上 光貞
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 1984/11/01
  • メディア: 単行本

《舒明天皇》629年~645年
 遷宮先:630年 飛鳥岡本宮(新規造営)
 移転①:636年 田中宮(岡本宮火災のため)
 移転②:640年 百済宮
 崩御地:641年 百済宮
《皇極天皇》642年~645年
 遷宮先:642年 飛鳥板蓋宮(改築)
 移転先:なし
 崩御地:なし
 ※小墾田宮への遷宮は異説あり
《孝徳天皇》645年~654年
 遷宮先:645年 難波宮(新規造営)
 移転先:なし
 崩御地:654年 同
《斉明(皇極)天皇》655年~661年
 遷宮先:655年 飛鳥板蓋宮
 移転①:655年 飛鳥川原宮(板蓋宮火災のため)
 移転②:656年 後飛鳥岡本宮
 移転③:?年 飛鳥田中宮(後岡本宮火災のため)
 移転④:661年 朝倉橘広庭宮(百済復興の戦のため)
 崩御地:661年 朝倉橘広庭宮
《天智天皇》668年~672年
 遷宮先:667年 近江大津宮(新規造営)
 崩御地:不明
(弘文天皇)諸説あり
《天武天皇》673年~686年
 遷宮先:673年 飛鳥浄御原宮(改築)
 移転先:なし
 崩御地:686年 同
《持統天皇》690年~697年
 遷宮先:飛鳥浄御原宮(遷宮なし)
 移転先:694年 藤原京

火災による遷宮を除くと、飛鳥岡本宮に遷宮(630年)してから藤原京に遷宮(694年)するまでの65年間に、飛鳥以外に宮があったのは百済宮(1年)、難波宮(10年)、朝倉橘広庭宮(1年)、近江大津宮(7年)の計19年、つまり全体の約30%の期間となります。
呉座氏のように、全体の期間の3割を占めるケースが「一時的な例外」と言えるかどうかは、かなり微妙なところでしょう。
※火災により遷宮した期間を考慮すると、全体の期間の約4割は首都が固定されていなかったことになります。

2. そして前述のように、難波遷都・近江遷都時も飛鳥宮はいわば「第二の首都」として維持された。したがって、井沢氏の言葉を借りれば、飛鳥時代の後半は「首都固定時代」ということになる。歴代遷宮の慣習を断ち切ったのは舒明の岡本宮があった地を宮に選んだ皇極天皇なので、持統天皇の火葬と首都固定は無関係だ。

上に書いたとおり、首都が固定していた期間は(呉座勇一氏の指摘する期間に限定すると)全体のほぼ70%ですし、難波京、近江大津宮への遷宮もあるので、飛鳥時代の後半が「首都固定時代」というには少々苦しいような気がします。

3. もし井沢氏が主張するように、天皇が亡くなるとケガレが発生するので(天皇の遺体を火葬しない限り)宮を放棄しなくてはならないのだとしたら、かつて宮があった場所に新しい宮を造るはずがない。藤原京以前は天皇の代替わりごとに「インフラの整備など街作りを一からやり直」していたと考える井沢説(『日本史真髄』小学館刊 2018年)は根本的に成り立たないのである。

この記述は明らかに間違っています。
飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮では、どの天皇も崩御していません。

もっとも、飛鳥浄御原宮では天武天皇が崩御していますが、持統天皇は遷宮は行っていません。このときの葬儀は死のケガレを取り除くとされる「仏式」で行われているので、井沢説と合致しています。

仏教の導入とともに、仏式の葬祭儀礼が導入され、墓制も土葬から火葬に移っていく。伝えられる歴代の葬祭儀礼の記載上、仏式の導入は天武からで…
(井上光貞 日本古代の王権と祭祀 p126)

天武天皇は火葬ではなく土葬ですが、次代の持統天皇は火葬されています。

また火葬のはじまるのは歴代では持統からで…
(前掲書 p126)

やはり、「持統天皇の宗教改革」があったから遷宮しなかった、という井沢元彦氏の「仮説」の方が説得力があるでしょう。

呉座勇一氏は、最後に記事をこうまとめています。

4.井沢氏は数多くの「仮説」を発表しているが、その中から安土宗論と首都固定時代論を選んで、私に回答を要求した。ということは、井沢氏はこの二つにはとくに自信を持っているのだろう。その選り抜きの二つでさえこの体たらくである。他の「仮説」の精度は推して知るべし。わざわざ検証する価値があるとは思えない。

「安土宗論」については、呉座勇一氏の「反論」より井沢元彦氏の「仮説」が妥当なことは論証しました。

そして、「古代の首都移転」についても、以上のことから判断すると、やはり井沢元彦氏の「仮説」の方が呉座勇一氏の「反論」より妥当だと言えるのではないのでしょうか?

余談ですが、血液型と直接関係ない歴時談義に、なぜ私がこれだけこだわるかというと、それは文系の論争がどう進行するかを知って、今後の参考にしたいからです。

結論としては、血液型とほぼ同じパターンであることがわかりました。

・「血液型と性格」に専門家がほとんどいないのと同じく、「古代の首都移転」や「安土宗論」には専門家は極めて少ない。
・このため、「専門家」と思われている心理学者(血液型)や歴史学者だからといって、特に知識(エビデンス)に優れているわけではない。具体的に言うと、心理学者は「血液型」や「統計学」の知識が乏しく、歴史学者は「宗教学」の知識に乏しい。
・よって、「血液型と性格」「古代の首都移転」「安土宗論」などでは、専門とされる学会ではその専門を超える学際的な議論が行われることは非常に少なく、今回のような「公開討論」が大部分である。
・そういう場合は、エビテンス(事実)に基づいて「在野」や「素人」が反論しても、「専門家」は無視することがほとんどである。

なお、この件について、以前に私へ「反論」のツイートをいただいた人に返してみましたが、全て無視されています。
非常に残念な結果となってしまいました…[たらーっ(汗)]

※初出の記事から微修正しました。
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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけのおまけ】 [井沢氏vs呉座氏]

前々回の続きです。

なお、この記事は、直接血液型とは関係がありません。

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 雑誌

4月8日発売の「週刊ポスト」4月19日号に呉座勇一氏の井沢元彦さんへの再反論が掲載されました。
ところが、この記事での呉座勇一氏の主張は、ことごとく間違っていることがわかりました。

たとえば、古代の首都移転(天皇の代替わりのたびに首都移転をする「歴代遷宮」)については、呉座氏は次のとおり反論しています。

【反論1】 井沢氏の「死のケガレ」によるとする説(以前は歴史学にそういう説もあった)には致命的な欠陥がある。飛鳥時代の飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮は同じ場所だ。つまり「死のケガレ」のある場所に遷宮している。

前々回の記事で調べたのは飛鳥時代限定だったのですが、初代神武天皇から「平安京」に遷都し首都が固定した第50代桓武天皇まで全部調べてみました。
なお、ソースはWipipediaです。
結果は次のとおりで、遷宮先が先代の崩御地と同じなのは、持統天皇になってから(表の黄色部分)のケースのみとなります。
それ以前には、先代の崩御地に遷宮した例は1件もありません!

つまり、井沢元彦さんの言うとおり、「持統天皇の宗教改革」で、死穢を克服したという説明のほうが説得力があるということになります。

GOZA9.JPG
(※は同じ場所)

【反論2】当時は妻問婚である。遷宮は息子(次代の天皇)が以前から住んでいた邸宅(王子宮)が新たな「宮」となったと考えるべき。

こちらも、よしぼうさんとの議論の結果を示しておきます。

YOSIBO3.JPG

結論として、上の表にあるように、初代神武天皇から第40代天武天皇の40人のうち、4人(安閑、反正、雄略、武烈)が皇子宮(王子宮)に遷宮し、他は違うということになりました(持統天皇以降は「首都固定」なので、数えても意味がない)。
全体の40人中4人ということは、全体のわずか10%にしか過ぎないのです。
実在が確実視される第26代継体天皇以降に限ると、15人中たった1人だけです。
つまり、皇子宮に遷宮したというのは、かなりの例外ということになります。

【反論3】 歴代遷宮が廃れて首都が固定されるにようになったのは、常識的に考えると、「宮」が中央官庁などの政府機構を備えたものに拡張されるようになり、大規模な建物を毎回新規造営すると非常に効率が悪くなったためだろう。

仁藤敦史氏の「都はなぜ移るのか」にも、そういう説が主流だとあります。

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 仁藤 敦史
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/11/21
  • メディア: 単行本

七世紀末の藤原京以前には、「歴代遷宮」といって、大王(おおきみ)の代が替わると同時に、必ず宮の移動がなされている。p12

考古学的な発掘成果に基づいた、日本古代の都城制の成立とその発展過程の研究視角として、宮や京の平面配置の変遷を律令制的宮司機構の成立過程に対応させて、制度史的に考察しようとする方法があり、大きな成果をあげて、これが現在の都城制研究の主流を占めている。p15

ただ、仁藤氏も指摘するように、この考え方は「鶏が先か卵が先か」と同じで、おかしいともあります。通説とは逆に、首都を固定したから経済効率が上がったのかもしれません。

当時の中国は隋と唐ですから、既に首都を固定しているわけです。
遣隋使や遣唐使で、当時の朝廷がそういう情報を知らないはずがありません。
よって、経済的効率を重視するなら、もっと早く首都が固定してもよいはずで、持統天皇から突如首都移転をやめたのには、何か別な大きな理由がないと不自然です。

もちろん、この本にはこうあります。

極論すれば、中国では秦・漢帝国以降は、すべて律令制と都城制が国家統治の基本となっており、邪馬台国や倭の五王の時代など中国と交渉を持った時代には、これらを導入することは同時代的には可能であった。にもかかわらず、そうならずに七世紀後半になって律令化と都城制が急激に導入されたことの意味が問われなければならない。p15

余談ですが、呉座氏の今回のネタ本は、「古代の首都移転」をわかりやすくコンパクトにまとめているこの本の可能性が高そうです。
#呉座氏の専門は「古代史」ではなく「中世史」です。

なぜなら、週刊ポスト3月29日号では、古代の首都移転についての井沢説には「科学的根拠がまったくないから論評の必要は無い」とまで言っているのに、1ヶ月もたたない4月19日号の記事で(突如?)反論を開始するのは、少々不可解だからです。

この本によると、反論1の死の「ケガレのせい」というのは久米邦武氏の説、反論2は本居宣長の説、反論3は喜田貞吉氏の説で、いずれもp17に紹介されており、内容もぴったり一致します。
また、NDL-Searchで文献を検索してみると、歴史学では一般的に「皇子宮」と呼んでいますが、この本では珍しく「王子宮」を使っていて、こちらも一致します。

呉座氏は、時間がなかったせいなのかどうか、上の私が作った表のように実際のデータを調べた形跡はありません。
というのは、反論1~3の現実のデータを見たなら、呉座氏の主張に納得する人は(本人も含め?)ほとんどいないと思われるからです。
もちろん、この仁藤氏の本にも、そんな一覧表はないのです…。[たらーっ(汗)]
本当はどうなのでしょうか?

[NEW]続きはこちら
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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけ】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

なお、この記事は血液型とは直接関係がありません。

井沢元彦さんが、歴史学者の「安土宗論八百長説」の提唱者としている、辻善之助博士の「日本仏教史」を読んでみました。

日本仏教史〈第7巻〉近世篇之1 (1970年)

日本仏教史〈第7巻〉近世篇之1 (1970年)

  • 作者: 辻 善之助
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1970
  • メディア: -

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この本を読むと、なぜ安土宗論八百長説が主流なのかが簡単に理解できます。

当時、歴史学の権威だった辻氏(東大史料編纂所長)の最大の根拠は、井沢元彦さんのいうとおりで、副審である因果居士自筆の「因果居士記録」です(理由は後述)。
「日本仏教史」によると、この貴重な自筆の史料は、越後三島郡新野氏所蔵のものと、加賀前田家(当時は前田侯爵)所蔵のものとの2種類が示されています。

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ここで、少しでも戦前の歴史を知っている人なら、これ以上の説明は不要でしょう。
前田家の江戸屋敷は、そのまま東大本郷キャンパスの敷地になっています。
東大―特に戦前は―高級官僚の育成を大きな目的としていました。
良いか悪いかは別として、政府に極めて立場が近いということです。

当時の前田「侯爵」は、旧華族ではトップクラスの地位です。
細かいことを言うと、侯爵の上には「公爵」がありますが、これは関白などになった近衛家などの旧摂家などに限られるため別格で、それ以外では最高の身分ということになります。

ということは、前田家が(おそらくは特別の好意で)利用を許可した自筆の「因果居士記録」について、信頼性を疑うことは許されず、必ず第一級の資料として使う義務があることになるはずです。
身も蓋もないことを言うと、スポンサーには逆らえないという、極めて単純明快な理由のようです。

参考までに、日蓮宗側の資料は、日淵の「安土問答実録」が第1に示されています。

tsuji3-2.JPG

さて、この「因果居士記録」の信頼性は、井沢元彦さんの指摘するとおりで、非常に低いようです。
なぜなら、因果居士記録によると、「八百長試合」は因果居士が仕切って日蓮宗側を敗北させたことになっているからです。
ということは、最大の屈辱を受けた日蓮宗側の記録には、必ず因果居士の名前が残るはずでに、逆に何も書いていないなら「因果居士記録」の信頼性が低いことは明らかです。

事実はどうかと言うと、辻氏も書いている日蓮宗側の記録、たとえば日淵の記録には全く出て来ません。
井沢元彦さんが指摘しているとおりです。

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 単行本

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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【まとめ】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

その後、4月8日発売の「週刊ポスト」4月19日号に呉座氏の再反論が掲載されました。

なお、この記事は、直接血液型とは関係がありません。

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 雑誌

私自身の備忘録として内容を要約してみます。

1. 井沢氏から論争を一方的に打ち切るのはおかしい。学問は論争なしには発展しないので、論争は続けるべきだ。

→私は、どちらかというと井沢氏寄りの立場ですが、確かにこれは呉座氏に一理あると思います。

2.売り上げや読者の数は、井沢氏の「仮説」の正しさを保証しない。ベストセラー作家の井沢氏は、自分の特権的な立場を自覚すべきだろう。

→確かにそうですが、学界も意外と保守的なので、必ずしも学者が正しいというわけでもありません。1.にあるように、学問的な決着を付けるのには、今回のようなオープンな論争もありかなと思います。 

続いて、古代の首都移転(天皇の代替わりのたびに首都移転)については、次のとおりです。

1. 井沢説の「死のケガレ」によるとする説には致命的な欠陥がある。飛鳥時代の飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮は同じ場所だ。つまり「死のケガレ」のある場所に遷宮している。

→これは明らかにおかしいです。前3者で崩御した天皇はいないので、死体から近いものに伝染する「ケガレ」は、そもそもないのです。

例えば、Weblioにはこうあります。

死穢 【しえ】
死の穢れのこと。古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられた。死体、それと接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられた。葬式に出た者が家に入るとき清めをした。遺族が忌中の間こもったのは清まる時間が必要との考えもあったから。

飛鳥時代全期を調べてみると、次のとおり天皇が崩御した宮は必ず次の代で別の場所に遷宮しています。
持統天皇が8年も飛鳥浄御原宮にとどまったのは、彼女が仏教による「宗教改革」で「ケガレ」を克服したとすると、特に問題になりません。

崇峻 遷宮先:倉梯柴垣宮 崩御地:同 
推古 遷宮先:豊浦宮 崩御地:小墾田宮
舒明 遷宮先:飛鳥岡本宮(新規造営) 崩御地:百済宮
皇極 遷宮先:飛鳥板蓋宮(改築) 崩御地:なし
孝徳 遷宮先:難波宮(新規造営) 崩御地:同
斉明(皇極)遷宮先:後飛鳥岡本宮(改築) 崩御地: 朝倉橘広庭宮
天智 遷宮先:近江大津宮(新規造営) 崩御地:未詳
(弘文)
天武 遷宮先:飛鳥浄御原宮(改築) 崩御地:同
持統 遷宮先:飛鳥浄御原宮

2. 当時は妻問婚である。遷宮は息子(次代の天皇)が以前から住んでいた邸宅(王子宮)が新たな「宮」となったと考えるべき。

→新たな「宮」はほとんど新規造営か、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮のように以前の場所に遷宮しています。そもそも直前の1.の「以前の場所に遷宮」という説明と矛盾するのも訳がわかりません。短時間で書いたことによるチェックミスでしょうか?

続いて、4月11日にTwitter上で井沢氏のコメントが出ます。

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出典:井沢氏のTwitter

歴史学者呉座勇一氏との「論争」、呉座氏の2回目の反論を掲載した「週刊ポスト」が全国に行き渡った頃なので、一言述べさせていただく。公開質問状を先に出したのは私だが、それは、あちこちで呉座氏が井沢の日本史に対する「研究」はまったく価値がないと言わんばかりのことを散らかしていたからだ。

その後の経緯はtogetterにまとめました。

持統天皇の火葬で首都移転がなくなった?

思いがけず、呉座氏ご本人から直接コメントをいただいたのには大変恐縮し、また感謝しています。

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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【続】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

この記事は、直接血液型とは関係がありません。

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出典:井沢元彦氏のtwitter

その後、3月25日発売の「週刊ポスト」4月5日号に井沢氏の反論が掲載されました。
大方の予想に反して、井沢氏の方から議論を打ち切りましたね。

週刊ポスト 2019年 4/5 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/5 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/03/25
  • メディア: 雑誌

#余談ですが、井沢氏の執筆記事を読んで、かなり昔の筒井康隆氏(井沢氏と同じB型)の「断筆宣言」を思い出しました。

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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【追記あり】 [井沢氏vs呉座氏]

この記事は、直接血液型とは関係がありません。
注:当初のものから多少変更してあります(2019.3.24 15:40現在)。

逆説の日本史24: 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎

逆説の日本史24: 明治躍進編 帝国憲法と日清開戦の謎

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/12/17
  • メディア: 単行本

私は、昔からの井沢元彦氏(B型)のファンで、累計510万部の「逆説の日本史」は、第1巻から最新の第24巻まで全部持っています。
#「逆説」というタイトルはB型が好むような気がしますね。

日本国紀

日本国紀

  • 作者: 百田 尚樹
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2018/11/12
  • メディア: 単行本

最近の歴史に関する話題としては、百田尚樹氏の「日本国紀」が昨年65万部の大ヒットとなり、世間を驚かせました。
#ちなみに、この本も買いました。
上の2冊はどらちも一般書です。

さて、アゴラで八幡和郎氏が指摘しているように、「日本国紀」は井沢氏から強い影響を受けていると言われています(下の投稿まとめを参照)。
その後、アゴラに本家本元の日本史学者である呉座勇一氏の投稿があり、「井沢史観」をめぐり、八幡和郎氏と間に論争が発生しています。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

  • 作者: 呉座 勇一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/10/19
  • メディア: 新書

参考までに、新進気鋭の呉座氏は、著書の「応仁の乱」が異例の47万部を売り上げました。すごいですね。
#この本も買いました。(^^;;

この論争は、遂に井沢氏と呉座氏の直接対決に発展し、3月4日発売の「週刊ポスト」3月15日号では、井沢氏が呉座氏に公開質問状を突きつけ、2週間後の3月29日号に呉座氏からの回答が掲載されています。
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出典:井沢元彦氏のtwitter

私は日本史は素人ですが、野次馬として論争を眺める分には面白いので、自分のための備忘録としてまとめを書いておきます。
#実は、今後の血液型論争の参考にしたいという理由もあります…。(^^;;

まず、井沢氏と呉座氏の直接対決になったアゴラ上の主な投稿は次のとおりです。

【アゴラ】
●八幡和郎氏の投稿(主なもの)
百田『日本国紀』は井沢『逆説の日本史』に似てる? 2018年11月23日 06:00
「週刊ポスト」で井沢元彦氏が呉座氏に公開質問状 2019年03月05日 11:31
呉座氏の学者としてのプライドは素晴らしいが 2019年03月09日 11:30
「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か 2019年03月16日 06:01
呉座 VS 井沢:歴史学者だけが歴史家なのか? 2019年03月20日 06:01
八幡和郎氏のfacebook【追記】
●呉座勇一氏の投稿(主なもの)
『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ① 2019年01月17日 06:02
『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ② 2019年01月18日 06:01
八幡氏への反論:歴史学者のトンデモ本への向き合い方 2019年03月06日 17:00
在野の歴史研究家に望むこと 2019年03月21日 16:00

【Twitter】
井沢元彦氏
呉座勇一氏(承認制)

【Togetterまとめ】
呉座勇一vs井沢元彦、直接全面戦争ハジマタ
呉座勇一氏、井沢元彦氏に反論(週刊ポスト 2019年3月29日号)〜その反響/一方「呉座―本郷和人」論争の気配…?

【はてなブログ】
国家鮟鱇
アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か? 2019-01-20
アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か?(追記) 2019-01-21
アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か?(簡易版) 2019-01-21 

ネット上で見る限り、圧倒的に呉座勇一氏が優勢です。
きちんと数は数えていませんが、感覚的には90~95%が呉座氏支持のようです。
正直に言うと、これはちょっと意外でした。もう少し井沢氏のファンがいると思っていたのですが…
残念なことに、あまり論理的に詰めた議論は見つけられませんでした。
#これは、最近の血液型論争と共通する傾向です。

【週刊ポストの主な論点と回答】
●井沢元彦氏の質問(3月15日号) 
1. 日本の歴史学界は宗教を軽視している。
2. 安土宗論は信長による八百長ではない。井沢氏が埋もれていた林彦明説を紹介し、八百長だという通説を「一蹴」した。その証拠に、ウィキペディアの記述も井沢説をベースにしたもの変更された。
3. 藤原京を建設した持統天皇がある種の宗教改革を行い、その結果首都固定が可能になった。
●呉座勇一氏の回答(3月29日号) 
1. 現在の日本の歴史学界が宗教軽視という理解はあたらない。一例として、三重大学の山田雄司氏の専門は怨霊研究であり、複数の著書もある。
2. 井沢氏が通説を「一蹴」したとの評価には従えない。ウィキペディアの記述はともかく、歴史学界では、信長が何らかの介入を行ったという見解が今なお主流である。
3. 科学的根拠がまったくないので論評の必要はない。

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