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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけのおまけ②】 [井沢氏vs呉座氏]

しつこく、前回の続きです。

なお、この記事は、直接血液型とは関係がありません。

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 雑誌

もう一度、週刊ポスト4月19日号の呉座勇一氏の記事『井沢元彦氏の「反論」に答える』を読み直してみました。

要旨は、p115の小見出しにもあるように、『7世紀の「首都」は移転していない』です。
その根拠は、最近の発掘調査の結果、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮は、建物の建て直しや土地の造成工事はあったにせよ、同じ場所にあったということになります。

正確を期するために、p115から少々長めに引用し、それぞれを検証していきます[冒頭の数字は便宜的に私が付けました]。

1. 舒明天皇以降、藤原京が完成するまでの間、難波遷都・近江遷都するという一時的な例外があるにせよ、天皇の宮は基本的に同じ場所[飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮]に存在し続けた。

では、舒明天皇から藤原京までの「天皇の宮」は具体的にどこにあったのでしょうか? 確認するため略年表を作ってみました。
なお、ソースはWikipedia、仁藤敦史氏の「都はなぜ移るのか」、そして井上光貞氏の「日本古代の王権と祭祀」で、 赤字は飛鳥岡本宮とは違う場所です。

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

都はなぜ移るのか: 遷都の古代史 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 仁藤 敦史
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/11/21
  • メディア: 単行本

日本古代の王権と祭祀 (歴史学選書 (7))

日本古代の王権と祭祀 (歴史学選書 (7))

  • 作者: 井上 光貞
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 1984/11/01
  • メディア: 単行本

《舒明天皇》629年~645年
 遷宮先:630年 飛鳥岡本宮(新規造営)
 移転①:636年 田中宮(岡本宮火災のため)
 移転②:640年 百済宮
 崩御地:641年 百済宮
《皇極天皇》642年~645年
 遷宮先:642年 飛鳥板蓋宮(改築)
 移転先:なし
 崩御地:なし
 ※小墾田宮への遷宮は異説あり
《孝徳天皇》645年~654年
 遷宮先:645年 難波宮(新規造営)
 移転先:なし
 崩御地:654年 同
《斉明(皇極)天皇》655年~661年
 遷宮先:655年 飛鳥板蓋宮
 移転①:655年 飛鳥川原宮(板蓋宮火災のため)
 移転②:656年 後飛鳥岡本宮
 移転③:?年 飛鳥田中宮(後岡本宮火災のため)
 移転④:661年 朝倉橘広庭宮(百済復興の戦のため)
 崩御地:661年 朝倉橘広庭宮
《天智天皇》668年~672年
 遷宮先:667年 近江大津宮(新規造営)
 崩御地:不明
(弘文天皇)諸説あり
《天武天皇》673年~686年
 遷宮先:673年 飛鳥浄御原宮(改築)
 移転先:なし
 崩御地:686年 同
《持統天皇》690年~697年
 遷宮先:飛鳥浄御原宮(遷宮なし)
 移転先:694年 藤原京

火災による遷宮を除くと、飛鳥岡本宮に遷宮(630年)してから藤原京に遷宮(694年)するまでの65年間に、飛鳥以外に宮があったのは百済宮(1年)、難波宮(10年)、朝倉橘広庭宮(1年)、近江大津宮(7年)の計19年、つまり全体の約30%の期間となります。
呉座氏のように、全体の期間の3割を占めるケースが「一時的な例外」と言えるかどうかは、かなり微妙なところでしょう。
※火災により遷宮した期間を考慮すると、全体の期間の約4割は首都が固定されていなかったことになります。

2. そして前述のように、難波遷都・近江遷都時も飛鳥宮はいわば「第二の首都」として維持された。したがって、井沢氏の言葉を借りれば、飛鳥時代の後半は「首都固定時代」ということになる。歴代遷宮の慣習を断ち切ったのは舒明の岡本宮があった地を宮に選んだ皇極天皇なので、持統天皇の火葬と首都固定は無関係だ。

上に書いたとおり、首都が固定していた期間は(呉座勇一氏の指摘する期間に限定すると)全体のほぼ70%ですし、難波京、近江大津宮への遷宮もあるので、飛鳥時代の後半が「首都固定時代」というには少々苦しいような気がします。

3. もし井沢氏が主張するように、天皇が亡くなるとケガレが発生するので(天皇の遺体を火葬しない限り)宮を放棄しなくてはならないのだとしたら、かつて宮があった場所に新しい宮を造るはずがない。藤原京以前は天皇の代替わりごとに「インフラの整備など街作りを一からやり直」していたと考える井沢説(『日本史真髄』小学館刊 2018年)は根本的に成り立たないのである。

この記述は明らかに間違っています。
飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮では、どの天皇も崩御していません。

もっとも、飛鳥浄御原宮では天武天皇が崩御していますが、持統天皇は遷宮は行っていません。このときの葬儀は死のケガレを取り除くとされる「仏式」で行われているので、井沢説と合致しています。

仏教の導入とともに、仏式の葬祭儀礼が導入され、墓制も土葬から火葬に移っていく。伝えられる歴代の葬祭儀礼の記載上、仏式の導入は天武からで…
(井上光貞 日本古代の王権と祭祀 p126)

天武天皇は火葬ではなく土葬ですが、次代の持統天皇は火葬されています。

また火葬のはじまるのは歴代では持統からで…
(前掲書 p126)

やはり、「持統天皇の宗教改革」があったから遷宮しなかった、という井沢元彦氏の「仮説」の方が説得力があるでしょう。

呉座勇一氏は、最後に記事をこうまとめています。

4.井沢氏は数多くの「仮説」を発表しているが、その中から安土宗論と首都固定時代論を選んで、私に回答を要求した。ということは、井沢氏はこの二つにはとくに自信を持っているのだろう。その選り抜きの二つでさえこの体たらくである。他の「仮説」の精度は推して知るべし。わざわざ検証する価値があるとは思えない。

「安土宗論」については、呉座勇一氏の「反論」より井沢元彦氏の「仮説」が妥当なことは論証しました。

そして、「古代の首都移転」についても、以上のことから判断すると、やはり井沢元彦氏の「仮説」の方が呉座勇一氏の「反論」より妥当だと言えるのではないのでしょうか?

余談ですが、血液型と直接関係ない歴時談義に、なぜ私がこれだけこだわるかというと、それは文系の論争がどう進行するかを知って、今後の参考にしたいからです。

結論としては、血液型とほぼ同じパターンであることがわかりました。

・「血液型と性格」に専門家がほとんどいないのと同じく、「古代の首都移転」や「安土宗論」には専門家は極めて少ない。
・このため、「専門家」と思われている心理学者(血液型)や歴史学者だからといって、特に知識(エビデンス)に優れているわけではない。具体的に言うと、心理学者は「血液型」や「統計学」の知識が乏しく、歴史学者は「宗教学」の知識に乏しい。
・よって、「血液型と性格」「古代の首都移転」「安土宗論」などでは、専門とされる学会ではその専門を超える学際的な議論が行われることは非常に少なく、今回のような「公開討論」が大部分である。
・そういう場合は、エビテンス(事実)に基づいて「在野」や「素人」が反論しても、「専門家」は無視することがほとんどである。

なお、この件について、以前に私へ「反論」のツイートをいただいた人に返してみましたが、全て無視されています。
非常に残念な結果となってしまいました…[たらーっ(汗)]

※初出の記事から微修正しました。
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