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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけ】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

なお、この記事は血液型とは直接関係がありません。

井沢元彦さんが、歴史学者の「安土宗論八百長説」の提唱者としている、辻善之助博士の「日本仏教史」を読んでみました。

日本仏教史〈第7巻〉近世篇之1 (1970年)

日本仏教史〈第7巻〉近世篇之1 (1970年)

  • 作者: 辻 善之助
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1970
  • メディア: -

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この本を読むと、なぜ安土宗論八百長説が主流なのかが簡単に理解できます。

当時、歴史学の権威だった辻氏(東大史料編纂所長)の最大の根拠は、井沢元彦さんのいうとおりで、副審である因果居士自筆の「因果居士記録」です(理由は後述)。
「日本仏教史」によると、この貴重な自筆の史料は、越後三島郡新野氏所蔵のものと、加賀前田家(当時は前田侯爵)所蔵のものとの2種類が示されています。

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ここで、少しでも戦前の歴史を知っている人なら、これ以上の説明は不要でしょう。
前田家の江戸屋敷は、そのまま東大本郷キャンパスの敷地になっています。
東大―特に戦前は―高級官僚の育成を大きな目的としていました。
良いか悪いかは別として、政府に極めて立場が近いということです。

当時の前田「侯爵」は、旧華族ではトップクラスの地位です。
細かいことを言うと、侯爵の上には「公爵」がありますが、これは関白などになった近衛家などの旧摂家などに限られるため別格で、それ以外では最高の身分ということになります。

ということは、前田家が(おそらくは特別の好意で)利用を許可した自筆の「因果居士記録」について、信頼性を疑うことは許されず、必ず第一級の資料として使う義務があることになるはずです。
身も蓋もないことを言うと、スポンサーには逆らえないという、極めて単純明快な理由のようです。

参考までに、日蓮宗側の資料は、日淵の「安土問答実録」が第1に示されています。

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さて、この「因果居士記録」の信頼性は、井沢元彦さんの指摘するとおりで、非常に低いようです。
なぜなら、因果居士記録によると、「八百長試合」は因果居士が仕切って日蓮宗側を敗北させたことになっているからです。
ということは、最大の屈辱を受けた日蓮宗側の記録には、必ず因果居士の名前が残るはずでに、逆に何も書いていないなら「因果居士記録」の信頼性が低いことは明らかです。

事実はどうかと言うと、辻氏も書いている日蓮宗側の記録、たとえば日淵の記録には全く出て来ません。
井沢元彦さんが指摘しているとおりです。

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 単行本

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念のため「日本仏教史」の該当する部分を探して読んでみましたが、確かにそう書いてあります。

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井沢元彦さんの指摘どおり、この「日本仏教史」の八百長説は、「因果居士記録」が最大の根拠なのですが、それを実際の数字で示してみます。

「日本仏教史」は、第9章第3節が安土宗論の解説で、うちp39~p50が「信長公記」などによる概説、それ以降のP50~p85までは辻氏の論拠としての「裏面観察」があります。
そこで、辻氏の解説部分であるp50の「裏面観察」以降に、貞安(浄土宗側の代表)、日淵(日蓮宗側の代表)、因果居士がどれだけ登場するかをカウントしてみました。なお、本文と引用文も関係なく、単純に「貞安」「日淵」「因果居士」という単語が何回出て来たかの数字となります。私の手作業なので、多少の誤差はあるかもしれませんがご容赦を。

・貞安(浄土宗側の代表) 25回
・日淵(日蓮宗側の代表) 46回
・因果居士 25回

日蓮宗側の日淵の出現回数は46回と、浄土宗側の貞安25回の倍近くとなっています。この数字を見れば明らかで、辻善之助氏の説明は明らかに日蓮宗側に立ったものです。さらに、因果居士の出現回数は25回で、浄土宗側の貞安も25回ですから、宗論の当事者と同じとなっています。
井沢元彦さんの言うとおりで、副審の因果居士は大活躍といってもよいのではないでしょうか?

若干補足説明をしておきます。

1. 浄土宗側の反論があるのではないか?
明治の「廃仏毀釈」を思い出せばわかるとおり、政府と仏教の力関係は圧倒的に政府側が優位です。よって、浄土宗側の反論は考慮する必要は低かったものと思われます。
それよりは、前田侯爵がどう反応するかの方がはるかに重要でしょう。ここで前田家のご機嫌を損ねたりすると、他の貴重な歴史的な文書の提供がなくなることは火を見るより明らかです。

2. 織田信長の子孫の反論があるのではないか?
織田信長の子孫は、確かに旗本として残りました。しかし、せいぜい2000石程度のようで、前田家とは段違に少ないのです。戦前は織田信長の人気は現在ほどなかったらしいので、いずれにせよ、信長の子孫の反論を考慮する必要性は低かったものと思われます。

3. そんな簡単な話なら、なぜ辻善之助氏の説が修正されなかったのか?
基本的に、官僚組織は「外圧」がないと動きません。
#歴史学がそうかどうかは別の話で、あくまでまでも一般的な話です。
もっとも、継続性という意味ではいい点もありますので、私は善し悪しではなく事実を述べているだけです。
証拠としては、最近の例ですが、モリカケ事件で契約の経緯の文書を書き換えたことを出せば十分でしょう。
もっとも、歴史学が当時の時代の空気に左右されるなどということは、仮に事実だとしても、また、外部に指摘されたとしても、当事者が認めることはないでしょう…。
まぁ、井沢元彦さんや私の説が絶対に正しいう保証もないわけですが、少なくとも「外圧」で通説の修正をしようというのは、割と一般的なことだと言ってもよいのではないでしょうか。

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