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週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【まとめ】 [井沢氏vs呉座氏]

前回の続きです。

その後、4月8日発売の「週刊ポスト」4月19日号に呉座氏の再反論が掲載されました。

なお、この記事は、直接血液型とは関係がありません。

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/19 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 雑誌

私自身の備忘録として内容を要約してみます。

1. 井沢氏から論争を一方的に打ち切るのはおかしい。学問は論争なしには発展しないので、論争は続けるべきだ。

→私は、どちらかというと井沢氏寄りの立場ですが、確かにこれは呉座氏に一理あると思います。

2.売り上げや読者の数は、井沢氏の「仮説」の正しさを保証しない。ベストセラー作家の井沢氏は、自分の特権的な立場を自覚すべきだろう。

→確かにそうですが、学界も意外と保守的なので、必ずしも学者が正しいというわけでもありません。1.にあるように、学問的な決着を付けるのには、今回のようなオープンな論争もありかなと思います。 

続いて、古代の首都移転(天皇の代替わりのたびに首都移転)については、次のとおりです。

1. 井沢説の「死のケガレ」によるとする説には致命的な欠陥がある。飛鳥時代の飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮は同じ場所だ。つまり「死のケガレ」のある場所に遷宮している。

→これは明らかにおかしいです。前3者で崩御した天皇はいないので、死体から近いものに伝染する「ケガレ」は、そもそもないのです。

例えば、Weblioにはこうあります。

死穢 【しえ】
死の穢れのこと。古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられた。死体、それと接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられた。葬式に出た者が家に入るとき清めをした。遺族が忌中の間こもったのは清まる時間が必要との考えもあったから。

飛鳥時代全期を調べてみると、次のとおり天皇が崩御した宮は必ず次の代で別の場所に遷宮しています。
持統天皇が8年も飛鳥浄御原宮にとどまったのは、彼女が仏教による「宗教改革」で「ケガレ」を克服したとすると、特に問題になりません。

崇峻 遷宮先:倉梯柴垣宮 崩御地:同 
推古 遷宮先:豊浦宮 崩御地:小墾田宮
舒明 遷宮先:飛鳥岡本宮(新規造営) 崩御地:百済宮
皇極 遷宮先:飛鳥板蓋宮(改築) 崩御地:なし
孝徳 遷宮先:難波宮(新規造営) 崩御地:同
斉明(皇極)遷宮先:後飛鳥岡本宮(改築) 崩御地: 朝倉橘広庭宮
天智 遷宮先:近江大津宮(新規造営) 崩御地:未詳
(弘文)
天武 遷宮先:飛鳥浄御原宮(改築) 崩御地:同
持統 遷宮先:飛鳥浄御原宮

2. 当時は妻問婚である。遷宮は息子(次代の天皇)が以前から住んでいた邸宅(王子宮)が新たな「宮」となったと考えるべき。

→新たな「宮」はほとんど新規造営か、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮のように以前の場所に遷宮しています。そもそも直前の1.の「以前の場所に遷宮」という説明と矛盾するのも訳がわかりません。短時間で書いたことによるチェックミスでしょうか?

続いて、4月11日にTwitter上で井沢氏のコメントが出ます。

izawa3.JPG
出典:井沢氏のTwitter

歴史学者呉座勇一氏との「論争」、呉座氏の2回目の反論を掲載した「週刊ポスト」が全国に行き渡った頃なので、一言述べさせていただく。公開質問状を先に出したのは私だが、それは、あちこちで呉座氏が井沢の日本史に対する「研究」はまったく価値がないと言わんばかりのことを散らかしていたからだ。

その後の経緯はtogetterにまとめました。

持統天皇の火葬で首都移転がなくなった?

思いがけず、呉座氏ご本人から直接コメントをいただいたのには大変恐縮し、また感謝しています。――――――――――――――――――――

次は「安土宗論」についてのまとめです。

こちらも、togetterにまとめができたようなので見てみてください。

安土宗論解説

不思議なのは、呉座氏の主張が意味不明なことです。

繰り返しになりますが、「週刊ポスト」3月29日号での呉座氏の記事によると、彼の主張は大きく次の3つになります。しかし、これらはそれぞれ矛盾すると思えるので、いったい氏が何を主張したいのか、少なくとも私には理解できませんでした。

週刊ポスト 2019年 3/29 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 3/29 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/03/18
  • メディア: 雑誌

a. 仮に、安土宗論は八百長ではないという林説が正しかったとしても、功績があるのは提唱者の林彦明氏であり、紹介者の井沢氏ではない。
 それでは、林説は正しいのかというと、
b. 歴史学界で安土宗論に関する議論が低調だったのは、日本仏教史の権威である辻善之助氏に忖度したからでは無く、おそらく現存の宗教団体が関わるデリケートな問題だからであろう。
 ということは、デリケートな問題だから結論は出ていないのかと思うと、
c. 井沢氏が通説を「一蹴」したとの評価には従えない。ウィキペディアの記述はともかく、歴史学界では、信長が何らかの介入を行ったという見解が今なお主流である。

はたして、これらの3つが同時に成り立つのものなのでしょうか?

c.によると、そもそも安土宗論は八百長ではないという林説は最初から間違っているのだから、a.のこの説は「正しかったとしても」と書くことはありえません。
b.によると、議論が低調だったのは「現存の宗教団体が関わるデリケートな問題」だから、明確な結論は出るはずはありません。逆に、議論が低調でもデリケートな問題でも結論が出ているなら、そもそもそんなことが問題になるはずがないので、この説明は不要です。
あるいは、安土宗論は八百長であるという見解は主流であるが、学界として明確な結論はまだ出ていないということなのでしょうか?


しかも、この呉座氏の文章には、歴史学の「主流」の根拠が示されていないので、ますますわからなくなります。
しょうがないので、独自に調べてみたのですが、やっと理由がはっきりしました。

さて、日本の学術論文を調べるなら、CiNii/J-Stage/NDL Search/Google Scholarといったところが定番です。
ところが、タイトルを「安土宗論」で調べても驚くほど何もないのです。

たとえば、CiNiiで調べてみると、査読付きの学術論文は、たった2件だけがヒットします。

・中尾堯 安土宗論の史的意義 日本歴史 (112), 48-54, 1957-10
・高木豊 安土宗論拾遺 日本歴史 (168), 51-60, 1962-06

cinii.JPG

2番目の高木氏のものは「拾遺」とあるので、学問的な根拠が書いてあるとは思えません。
つまり、実質的には1件のみということになります…。

確かに、呉座氏が「歴史学界で安土宗論に関する議論が低調だったのは、日本仏教史の権威である辻善之助氏に忖度したからでは無く、おそらく現存の宗教団体が関わるデリケートな問題だからであろう」と述べているとおりです。

Wikipediaの「安土宗論」の参考文献も調べてみました。

・辻善之助、「安土宗論」、日本歴史地理学会編 『安土桃山時代史論』 仁友社、1915年
・田中智學『毒鼓』1巻6号(殉教号)、獅子王文庫、1920年
・林彦明「安土宗論の真相に就て」、『専修学報』1号、1933年
・中尾尭「安土宗論の史的意義」、『日本歴史』112号、1957年
・河内将芳 『日蓮宗と戦国京都』 淡交社、2013年

最後の5番目の河内将芳氏の著書『日蓮宗と戦国京都』が学術書と言えるかどうかは微妙なところですし、読んだ限りでは明確な主張もないようです。
やはり、学術論文はほとんどないのです。
田中智學氏は日蓮宗、林彦明氏は浄土宗の立場ですから、宗派中立的かつ仏教史の権威である辻善之助氏の説を消去法で採用するしかないようだ、というのが残念な現実ということになります。

このことを裏付けるように、2014年発行の神田千里氏の著書『織田信長』では、安土宗論の記述は辻説(参考文献に掲載)に依っています。

織田信長 (ちくま新書)

織田信長 (ちくま新書)

  • 作者: 神田 千里
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/10/06
  • メディア: 単行本

現在「通説」とされている辻善之助氏の説は、初出が1915年だから、なんと100年も変わっていないのです。

井沢氏は、「週刊ポスト」4月5日号で、

週刊ポスト 2019年 4/5 号 [雑誌]

週刊ポスト 2019年 4/5 号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/03/25
  • メディア: 雑誌

「学問の世界」では認められなくとも「間違いはどんな大御所が言おうと間違い」である

と述べています。

それでは、具体的に辻説のどの部分が間違いかというと、それは「逆説の日本史」第10巻-戦国覇王編:天下布武と信長の謎 p158にあります。

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

逆説の日本史10 戦国覇王編: 天下布武と信長の謎

  • 作者: 井沢 元彦
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: 単行本

izawa9.JPG

「八百長論」の根拠は辻説で、辻説の根拠は因果居士の「記録」と日淵の「安土問答実録」です。
井沢氏は、「因果居士記録」には日淵の名がなく、「安土問答実録」には因果居士の名がないから、これらの史料は信頼できず、辻説は誤りだとしています。
これに対して、呉座氏は何の反論もしていません。

まさかこんなことだとは、まったく思ってもみませんでした。[たらーっ(汗)]

古代の首都移転に至っては、呉座氏が「論評の必要は無い」と言っているので、おそらく論文は1件もないと思います。これでは、初めから議論にならないはずですね。

現在の研究者は、分野が非常に細分化されているので、論文がほとんどない「不人気」なテーマが存在します(たとえばオカルト)。
そういうときには、たまに「学界」と「在野」の知識の逆転現象が起きる場合があって、「安土宗論」や「古代の首都移転」はまさにそのケースだろうと思います。

以上のことを総括すると、少なくとも「安土宗論」「古代の首都移転」については、歴史学者の意見はさっぱりあてにならないことになります。

びっくりです。[バッド(下向き矢印)]

【追記】
参考サイトとして紹介しておきます。
山崎行太郎の『毒蛇山荘日記』
【歴史学者亡国論(1)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(2)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(3)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(4)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(5)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(6)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(7)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(8)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(9)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
【歴史学者亡国論(10)★トンデモ歴史学者=呉座勇一への公開状】
※この後に26まで続いています。

[NEW]続きはこちら
コメント(6) 

コメント 6

欺善者

山崎行太郎の毒蛇山荘日記に一通り目を通しましたが、凡庸な八幡和郎の駄文と違い、呉座勇一に対する評価に関して言えば概ね妥当だと思います。

ただ、

『呉座勇一の著述を見ていくと、「 階級闘争史観」とか「 唯物史観 」「革命 」という言葉が良く出て来る。どうも、呉座勇一は、そういう史観に依拠する歴史記述に反対らしい。要するに伝統的な左翼ではないらしい』

『呉座勇一が、戦後の知的空間で、大きな勢力を占めて来たマルクス主義やマルクス主義的な唯物史観などに対して、かなり批判的だということが分かる。つまり、呉座勇一はマルクス主義者でも左翼でもないらしいことが分かる』

という評価は、山崎行太郎も左翼なのでちょっと甘いですね。

人文系学部が統廃合により追い詰められているので、40歳近い年齢でいまだ助教でしかない呉座勇一が、従来にないタイプのベストセラー学者として、何とか生き残ろうとする当たり障りのないポーズでしかないと思います。今は、「階級闘争史観」や「唯物史観」の虚構を暴いた書籍が沢山出版されているので、左翼の歴史歪曲・捏造の手口がバレ始めているのだから当たり前です。
実際には、権威主義的で博士号学者という肩書を盾に歴史学界を守ろうと必死で、「史料のないところに歴史はない」などと、証拠至上主義に凝り固まった唯物主義者で、左翼丸出しですから。

しかし、山崎行太郎が呉座勇一に関しては比較的まともなことを述べているように見えても、小沢一郎を支持し、佐藤優と対談し、佐高信と共著を出している時点で論客としてはアウトです。
血液型で例えるなら、能見氏が鈴木芳正と対談し、前川教授が大村政男と共著を出すくらい相容れないことだと思って下さい(笑)。

いくら、哲学者だの思想家だのと、高尚で小難しいことを述べているように見えても、沖縄基地問題などでの他の発言を見ると、呉座勇一レベルの単純幼稚な論理で、思想家と自称しながら理論武装が出来ていないことが露呈しています。恐らくは、ユダヤ人思想家・哲学者の著書に相当のめり込んだのでしょうが、理論武装とは彼らに学ぶことをいうのではありません。
マルクスやエンゲルス、革命論などの話で盛り上がるような者は、「誤れるユダヤ的思考の所産」を真理だと勘違いしている馬鹿者で、共産主義はユダヤ人が作った虚構論理であることを知らない・理解出来ない者たちなのです。当然、歴史認識や物の見方・考え方も歪んでいます。

by 欺善者 (2019-04-28 09:09) 

ABOFAN

呉座勇一氏は、「史料第一主義」と言いながら、実際には「安土宗論」「古代の首都移転」に関しては、さっぱり史料を調べていないようです。私が史料を調べて疑問点をまとめて記事にしたら、毎日結構な数があったはずの第三者から批判のツイートが、ほぼ消滅しました。
もちろん、反応が少ないのは大型連休中だからということもあるのかもしれません。が、それにしても歴史学の研究者には、非常に「素直」な人が多いのだと感じます(苦笑)。

呉座氏の専門は「中世史」です。宗教がらみの「安土宗論」や「古代の首都移転」は知識がないんでしょうかね。せっかく専門家の貴重な知見を聞けると思ったのに残念です。
週刊ポストで井沢氏と呉座氏が直接対決【おまけのおまけ】https://abofan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-27 にも書きましたが、「古代の首都移転」の呉座氏のネタ本は、おそらく仁藤敦史氏の「都はなぜ移るのか」です。週刊ポスト4月19日号の再反論は、ほぼこの本に書かれているとおりの内容になっています。
ただ、時間がなかったせいか、実際のデータは調べなかったらしく、彼の主張はことごとく間違っているのです(苦笑)。
これでは到底「史料第一主義」とは言えないと思うんですが…。

山崎行太郎氏の毒蛇山荘日記は、最新版まで読んでみましたが、呉座氏や八幡氏と同じように「事実」についての記述が少ないのは、ちょっと不思議な気がしますね。
by ABOFAN (2019-04-28 13:32) 

欺善者

事実を重視しないことを不思議に思うのは非常にAB型らしいですね。物証や結果(現実)偏重の姿勢は、非常に物質主義的(非精神的)で裁判的だと思います。AB型の精神性が唯物的だと感じる一面でもありますが。
AB型の思考性には物証に依存しての検証が多く、物質から独立した自分の考え方・物の見方(思想)というものが余り出て来ないので、AB型以外からすれば、逆に不思議に思うかも知れません。
長くなるので省略しますが、物証というものは必ずしも物事の本質を証明するものではないということです。

AB型は、他人や社会との心情的な繋がりが弱く、心の違和感・距離感を感じるといいますが、政党を渡り歩く無信念の根無し草的放浪者、細野豪志などを見ていると、そもそもAB型に思想・信念があるのか疑問に思うこともあります。
AB型に自分の考え(物事の批評ではない)を聞くと、適当に受け流したり、困ったような顔をしてボソボソと答えたりする事が良くあるのですが、自分の考えや意思、主体性が無いかのような印象を受けます。

勿論、全く思想・信念が無いことなど有り得ない訳で、例えば、政府の自粛要請に全く聞く耳を持たず、何回も振り切って北朝鮮に渡航しているアントニオ猪木がいますが、かつて、湾岸戦争の時に単身イラクに押し掛けて、サダム・フセイン大統領と直談判したことを思い出します。
血液型政治学とも呼べるのでしょうが、実は、信条とする政治信念(イデオロギー)次第で行動がガラリと変わってきます。血液型だけで政治が読めないのはそういうことですが、精神的影響を受ける社会の価値観・通念(思想)により大きく左右されます。

例えば、小野田寛郎氏が育った時代の社会通念には、現代のようなお花畑の平和ボケ思想などは微塵もありませんでしたし、LGBT現象に振り回され、彼らの権利を守るための法案成立に奔走する稲田朋美を見れば、社会の価値観、流行、通念次第という意味も分かるかと思います。

アントニオ猪木が、どのような政治信念を持っているのか想像してみると、

「武器を捨てて話し合い、世界が一つになれば平和がやってくる」

という、コスモポリタン的発想の理想主義的なものではないかと思います。現実は非情なので、そのように現実離れした夢想的イデオロギーは全く通用しませんでしたが。

アントニオ猪木の思想的立ち位置はこんな感じですが、豪華メンバーが勢揃いしています。
(ブラウザの場合は、一番上の画像の表示をクリック)
https://twitter.com/netsensor1/status/1114858414365011969


かつて私は、人間の精神という心的現象を科学的手法だけで考えるのは間違いで、思想的考察なくして人間性の深い理解は有り得ないと述べましたが、よくある「文系」「理系」などという浅薄単純な発想のことではありません。

もし、AB型が心の違和感・距離感を持つ、心情的に繋がることが苦手という性質が、「思想」や「精神論」を不得意にさせているとしたら、そのようなモノを持つ人間というのはよく分からぬ生き物ということになり、太宰治の言う「人間失格」の意味も分かる気がします。
もしかしたら、人間や世の中を動かしている「イデオロギー」に対する感覚が鈍いのかも知れませんが、だとすると、思想的鍛練を積んで理論武装するには、AB型は他型よりも努力しなければならず、所謂、「日本人の精神性」というものも分かり難いのかも知れません。

よくあるAB型思考・政治社会分析の例を貼っておきます。


「不思議な不正義」
日本の精神的荒廃を嘆き社会正義と人間愛を宣揚し,日本文化を守ろう
太宰治に傾倒、自らも人間失格を自称、政治の腐敗に喝!
http://takatora.blog74.fc2.com/


ソースが、

日刊ゲンダイ
LITERA
朝日新聞デジタル
AERA dot.

などの左翼メディアに特に偏っていて、ものの見事に精神を操られていますが、物事の判断規準となるソース(データ)が間違っているという発想は想定外のようですね。田中眞紀子と同じような盲目で、自分の分析は正しいと思い込み、これで「日本の精神的荒廃」だとか、「政治の腐敗に喝」とは笑わせてくれます。
もしかしたら、NHKに受信料を払い朝日新聞を購読し、「天声人語」を楽しみにしているのかも知れません(笑)。頭が馬鹿になった現代のAB型に分析力などは無いというのは、このような意味です。

但し、AB型の元アナウンサーで、鈴木史朗氏や安住紳一郎氏などはその限りではなく、物事の判断規準が変われば持ち前の性質を活かせるという例でもあります。
現代のAB型が左翼になるのはいとも簡単ですが、その逆になるには、視覚・聴覚的世界や社会通念に流されて精神的な影響を受けないように、自らの中に判断規準となる信念を持たなければならないので、そんなに簡単ではないと思います。騙されないように「偽装保守」をも見分けなければならないですし。
思想的に理論武装していない者は精神的に無防備な状態にありますが、治安や平和を守るのに丸腰ではお話にならないのと同じ理屈なのに、これが中々通じないのです。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid2212.html
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5019071.html
AB型政治家・中曽千鶴子市会議員のblog(一応保守らしいので)
https://profile.ameba.jp/ameba/chiruko12

現代社会は誤った思想や知識、情報の洪水なので、そのような狂った社会に適応し切れず、太宰治のように気が狂いそうになっているAB型の気持ちが分かる気がします。能見氏は血液型のせいだと述べていましたが、ちょっと違うような気がします。

by 欺善者 (2019-05-04 03:05) 

ABOFAN

>事実を重視しないことを不思議に思うのは非常にAB型らしいですね。

そうでしょうか? 事実を無視したら科学じゃないですよね?
そもそも、私の提示した「事実」が間違っている可能性もありますしね。

歴史学者は自ら「史料至上主義」と断言しているのだから、私の示した事実に対して、それは正しくないという猛烈な反論が返ってくると信じていたのですが、どうやら考えが甘かったようです。
#「素人」で「在野」の私にはそれしか考えられなかったのですが…。
現実には、Twitterでは軒並みブロック、あるいは無視される結果に終わりました。

まさに、統計を無視する心理学者と同じパターン、言い換えれば井沢元彦さんのいう「朱子学的」な思考法ということになります。
これを打破するのは、おそらく「黒船」のような外圧しかないんでしょうね…。
by ABOFAN (2019-05-04 22:01) 

欺善者

まだ科学という迷路に迷い込んでいるのですか。どこから無視という言葉が出てきたのか分かりませんが、「事実を無視したら科学じゃない」「現実のデータで実証されない限り信じない」というのも、科学信仰の典型的思考ですね。何れも判断規準を科学に依存していると思いますが、要するに「目で見たものしか信じない」ということでしょうか。

ニセ科学という言葉が、レッテル貼りや陰謀論呼ばわりに使われるくらい、科学には一片の疑いもなく、絶対基準であるかのように見えますが、自然科学というのは、「誰が調べても同じ結果が出る」「物質が分かればいずれ全てが分かる」「五感で分からないモノは存在しない」などという、西洋由来の誤った考え方・唯物思想のことで、この世のことは科学で説明できるとして、目に見える物質や現象など、目先のことに囚われることをいいます。

例えば、物質が持つ性質の一つに「色」がありますが、色という現象は、人間の視覚にとっての「映像的事実」でしかありません。色の見え方というものは、光の加減だとか、犬が色盲だとか、色々言われていますが、生物によって見え方が違うということが知られており、他の生物には違う色や状態に見えていても不思議ではありません。

人間と他の生物、どちらの見え方が「科学的に正しく」物質の性質を表しているのか。双方が自分の見え方が正しいと主張して、「同じ結果」にはならないと思いますが、どちらが物質の真実なのか、科学の法則は「物質の本質」を表すものではなく、科学は何も答えられません。
以前、山田高明氏の「腐った肉を好む動物」の例えを引用しましたが、これもその生物にとっての感覚的事実で、肉の状態により好む生物が違います。生物によって事実や常識、世界が違うという意味です。

人間の肉体の体質・性質に個人差があるのも、個人だけの法則・性質が存在するためで、「誰にでも同じ結果が出る」薬や治療方法を見付けることは難しいですが、五感の感覚や思考性にも個人の性質・性格があって、人によって物の見方、感じ方、考え方が違うので、「誰が調べても同じ結果」や、一致した見解を出すのは難しいです。個人の権利を要求するための民衆政治が、個人の性質(論理)に振り回されて、衆愚性に陥る理由も分かると思いますが、科学などの学説を巡る対立とも似ています。

ユダヤ人は、科学のことを「ゴイムに信じ込ませた偽の法則」と呼んでいますが、「科学から得た知識は全て正しい」と錯覚させることをいいます。科学という唯物思想は、宗教のようなもので、啓蒙思想というのは、非科学的なもの全て、宗教、思想、神話、迷信、伝説、伝統、道徳、習慣、文化、歴史、君主制、階級社会などを否定して、文明と国家を破壊するために、ユダヤ人が考え出したものです。
人間の精神とは、これらの非科学的な文化現象の集積でもあるのです。
歴史を科学で物質的に説明したものが「唯物史観」で、ユダヤ人により、共産主義という虚構の社会科学が産み出されました。科学信仰もまた、「誤れるユダヤ的思考の所産」の一つなのです。

多くの者が、「科学的結果は物事の真実」「科学的研究が進めばいずれ解明される」「科学が問題を解決する」などと、科学を盲目的に信じ込んではいないでしょうか。科学というのは、物事の本質や真実を説明するものではありません。
自然科学は、人間の感覚器官にとっての事実であって、物質の表面の浅いところまでしか分からないのです。血液型で政治や社会を殆ど何も説明出来ないのも、自然科学の手法には限界があるのです。人間の精神がいずれ科学で解明出来る、生物学的に科学で割り切れると考えるのは、盲目的科学信仰だと思います。

AB型の思考性には、視覚や聴覚など五感頼みの一面があると思いますが、視覚的世界などの感覚で捉えた世界を、現実や事実だと判断しやすいのでしょうか。精神的なものを遮断して五感と自身が持つ判断規準で分析し、事実や結果として判定する傾向があるのかも知れませんが、だとすると、事実や物証など、科学に依存する傾向も納得です。
勿論、他の型も視覚的世界などに惑わされやすいのは同じですが、大きな違いは、精神が肉体外部の現実世界と遮断されたような感覚はないということです。物事との心情的な繋がりに違和感はありません。

AB型の言論には思想的なものが少なく、精神論は余り得意ではないように思いますが、例えるなら、心が肉体の中に閉じ籠められているかのような印象を受けます。肉体外部の世界と心的繋がりが抑制される性質が、精神的思想を不得意にしているのかも知れません。
人間の精神や思想というものが良く分からなくても、自分にはない精神世界が存在し、それが人間社会を動かしていることを、一番理解しやすいのがAB型でしょう。それはAB型の強みでもあり弱みでもあると思います。

現実の世界と隔離されたような精神構造を持つために、現実世界に事実、実物といった根拠(実体)を求めているように見えます。そのため、根拠のない精神論・観念論ではなく、客観的根拠、科学的実証性を重視するのでしょう。
AB型の依存傾向というのは、形のない精神的なものではなく、頼りになる形ある実体・根拠を求めるところから来ている気がします。なので、外部の世界との具体的な繋がりが断たれたり、根拠が崩れたりすると、他の型では考えられないくらい精神的不安定に陥るのではないかと。

現実世界と精神の心的繋がりが隔離されたら、精神性が現実離れするのは容易に想像が付きます。現実世界を心的に捉えるよりも、視聴覚などの五感によって感覚的に捉え、その精神世界には現実的実体性が乏しい感じですが、AB型に思想や信念が少ないのも、精神的具体性が乏しいからではないかという気がします。
現実世界に囚われない思考はAB型が最も得意で、精神的には最も唯物的ではないと思いますが、精神的要素を排除した唯物的にも見える現実感覚と、現実世界から隔離されたような精神性の二重構造という感じがします。


御持論の朱子学ですが、仲間の理解が得られなかったというのは、思想的感覚のズレによると思います。私は、「難し過ぎると思う」と述べましたが、言い換えれば、自説は個人的思想なので、考え方や感覚の異なる他人にはピンと来ないだろうという意味です。他人の意見を求めたのは、恐らく客観性を重視してのことでしょう。

一つ不思議に思うのは、何故、いつも根拠が池田信夫と井沢元彦ばかりなのか、ということです。特に歴史や思想などは偏りを防ぐため、多くの論客や資料の中から学ばなければならないと思いますが、何故、いつも少数なのでしょうか。
同様のことをAB型保守の人に尋ねたことがありますが、色々読み過ぎて思想的に裏切られるのが怖い、とのことで、思想的に定まらない細野豪志を思い出しました。

思想というのは、要するに物の見方、感じ方、考え方のことなので、人それぞれの感性・感覚、常識、価値観、知識、経験、人生観など、判断規準の違いにより大きく左右されますが、心理学者や歴史学者が「統計や事実を無視」するのは、朱子学的だとは思いません。
勿論、それは、shozoさんの個人的な物の見方、感じ方、考え方、つまり、個人的思想という訳ですが、心理学者や歴史学者にしても、人間が、学説や自説にしつこくしがみ付いたり、思い込んだりするのも、元々、全ての人間に共通した性(さが)ですから。

血液型を似非科学呼ばわりする心理学者や科学者が、非科学的なものを否定したがる啓蒙主義者、即ち、唯物史観の左翼思想で動いているという意味がお分かりでしょうか。だから、イデオロギーを非科学的だと背を向けた能見正比古氏や、陰謀論や史料不在の非科学的な歴史を否定する日本の歴史学者、資本主義と皇室を批判する池田信夫なども、唯物史観の左翼だと言っているのです。大東亜戦争から共産主義の痕跡を抹殺するため、明治維新からの「朱子学史観」を垂れ流してきたのは、恐らく歴史学者ではないかと思います。

朱子学に限らず、全ての宗教、イデオロギー、科学、理論、学説なども、人間の思考は全て思想(物の見方・考え方)であって、それに囚われ、思い込み、振り回されるのが人類普遍の性質なので、自縄自縛の無限ループに陥らないよう、人間自身が自らの性質を知る必要があります。

by 欺善者 (2019-05-11 16:03) 

欺善者

我が国の学問世界を蝕んでいるのは、物質科学主義=合理主義ですが、その西洋の価値観に被れた「進歩的知識人」は、我が国の伝統文化や歴史、皇室、神道、教育勅語や修身などの道徳倫理、国体(お国柄、民族性、精神性、文化性、価値観)など、科学的ではない精神的なものを、「時代錯誤の不合理な因習」「非文明的、非科学的な迷信」と、合理的基準で考え、中には「軍国主義の象徴」などと忌み嫌う者もいます。

それが、文明開化の開国以来、流入してきた啓蒙思想=唯物主義(精神的産物を科学で否定すること)で、新しい時代の価値観となったのは、西洋由来の民主主義(デモクラシー)、個人主義ですが、民主主義も共産主義と同じく、国家に拳を突き上げる反体制・反権力の革命思想です。
学問世界のエリートだけでなく国民も、科学絶対主義、進化論、進歩思想(古い慣習・価値観は遅れているという発想)、自由・平等・人権という、左翼の革命思想を合理的に正しいと勘違いしています。

何故、能見氏が唯物史観の持ち主かというと、学問的エリートの進歩的知識人と同じく、非科学的な精神論を嫌い、天皇や道徳を軍国主義的な時代遅れの非科学的産物と見做し、血液型が民族性や文化・文明を作り、人類史を動かしてきた、血液型で歴史を見直す必要がある、などと、「物質(血液型)が歴史を動かしてきた」という、左翼の唯物史観と同根だからです。
心理学を非科学的だと批判していたのも能見氏ですが、歴史学者や心理学者など、学問世界の進歩的知識人は、非科学的なものを否定する啓蒙思想的な唯物主義者が多く、「科学教」という西洋崇拝イデオロギーの信者のようです。儒教・朱子学も、その非科学的な精神的産物の一つな訳ですが。

幕末の薩長と幕府の闘いは、英仏の日本での覇権を巡る代理戦争でもあったので、薩長と幕府それぞれを英仏が支援していたことは知られていますが、英仏の資本が共にユダヤ資本だったことは知られていません。
アメリカのイギリスからの独立戦争を支援していたのはフランスですが、そのフランス王室の資金源もユダヤ資本で、王室はユダヤ人が引き起こしたフランス革命で打倒されました。
アメリカにある自由の女神像は、仏ユダヤ組織から米ユダヤ組織に送られて、迫害からの解放という意味の自由=リベラリズム、つまり、自由・平等・人権・博愛という現代民主主義のシンボルになっていますが、要するに革命思想の広告塔です。

明治政府は、西洋の一神教的世界に対抗するため、日本人の精神的統合と結束を図る目的で、元々、祭祀的な文化概念だった神道を、一神教もどきの道徳的な規範(国家神道)として利用し、エホバのような人格神も、経典も、教義さえも無い神道の求心力として、お飾りの人格神に天皇を利用し、現人神に仕立て上げました。
元々、天皇という権威と、政体(幕府)という権力に分かれていた国家体制を一つに統合して、文化的存在だった天皇を、西洋王室のような政治的権力に祭り上げたのです。和の精神という、多神教的世界観の神道を、西洋基督教の真似をして、一神教の排他的性格に歪めてしまいました。
道徳が厳しくなると、一神教の不自由な戒律にも似てきますが、左翼の狂信的な「人権平等教」が、ユダヤ教由来なのは言うまでもないです。

この、天皇を神格化した「日本教」を重んじる陸海軍の青年将校らが、当時、猛威を振るっていた共産主義の革命思想に感化されて引き起こしたのが、二・二六事件、五・一五事件、血盟団事件などの国家反逆事件で、明治維新以来、陸海軍を支配してきた「薩長軍閥政府」に、その矛先が向かったのです。その中には、愛国者や天皇制支持に転向したように見せ掛けた共産主義者が含まれていました。

「尊皇攘夷」などは、錦の御旗を奪取するための口実で、明治維新(革命)と薩長帝国政府を正当化するためのお飾りに過ぎません。天下太平の平和ボケから覚醒して、欧米列強の植民地にされないよう攘夷のポーズを取りながらも、西洋文明を取り入れて国家体制を立て直しましたが、攘夷どころか開国だの文明開化だのと、西洋物質科学文明=ユダヤ文明を崇拝し、西洋帝国主義の真似事をしてきたのです。当時の状況を考えるとやむを得なかったとはいえ、この時から現在に至るまで、日本人は何も変わっておらず、精神的主体性を見失ってしまいました。

目に見えない思想的背景というものは、複雑なので思想的感覚が必要ですが、性格と同じく言葉で説明するのは難しいです。AB型の、言葉に対する概念には、心的要素・精神性が薄く、言葉の持つ意味を忠実に解釈し、言葉の上での矛盾に対して、過敏に反応するようにも思いますが、他の型とは、言葉の感覚、捉え方に齟齬があり、情緒的含蓄や観念的な冗長性が含まれることを理解しなければ、人間社会が良く分からないのではないかと思います。

簡単に言えば、言葉に忠実に縛られる訳ではなく、個人の物の見方、考え方にも左右されるので、他の型から見れば、AB型が言葉に縛られることが不思議に映り、状況によっては杓子定規で冗談が通じないと思うことがありますが、言葉に振り回されている印象を受けます。
この意味で、日本人の精神というのは最も曖昧な態度で、必ずしも白黒をはっきりとさせない、集団主義的で多神教的な精神性を持ち併せているので、言葉の解釈を巡って、AB型的感覚からはイライラするのかも知れませんが、神道的観念を理解しなければ分からないと思います。

物質には性質という法則がありますが、宇宙では、それぞれの惑星が違う性質の法則を持っていても、各惑星が決してバラバラに動いたりはせず、宇宙全体の調和が必ず保たれており、地球の法則でも自然界の法則は保たれています。
日本人の精神的源流である神道は、自然信仰に基づいており、自然界の法則と同じく全体(集団)の調和、つまり、個人の自由を重んじる一神教的排他性とは逆で、「和の精神」の元になっています。曖昧で煮え切らないとも批判されますが、良くも悪くも、和の精神は日本人の民族性ですから。

我が国に、様々な宗教、思想、文化、価値観が混在しているのは、神道の多神教的な調和の精神からくるもので、明治政府も西洋文化を取り入れたのですが、その神道に一神教的排他性を取り入れて大きく失敗しました。異文化に被れるくらいの許容性があり、様々な文化を吸収し日本的なものに改良してきましたが、共産主義や民主主義・リベラリズムといった、猛毒の排他的ユダヤ思想だけはどうしても消化出来ず、我が国を蝕み続けています。

現在、我が国には多くの外国人が押し寄せ、ユダヤ人に支配された、西洋文明発祥の地・欧米も、グローバリズムに飲み込まれて窮地に陥っていますが、ネットなど、国際化の波に乗って日本文化が拡散し、世界を席巻しつつあります。
来日した外国人が、我が国の文化性の高さと豊かさ、治安の良さと秩序、日本人の道徳的な精神性に驚き、日本文化に嵌まってしまう者も少なくありません。今ではかなり劣化してしまったとはいえ、それでも日本人の精神性に感化されて、日本に見習おうとする外国人が増えています。
左翼は、外国人を引き込んで我が国を破壊しようとしていますが、日本が世界に影響を与えるというパラドックスも起きているのです。混迷する世界情勢に逆転劇が起こるかどうか、日本が手本になるかも知れません。


日本ほど素晴らしい国は世界中のどこにもないだろう アーセン・ベンゲル(元名古屋グランパスエイト監督)
https://www.youtube.com/watch?v=GBww-WVRplg

by 欺善者 (2019-05-18 21:40) 

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