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「血液型人間学批判」の朱子学的理解【再】《再度追記》

前回の続きです。

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疑似科学批判の一つである「血液型人間学批判」は、基本的に儒教(正確には朱子学)の伝統を受け継いでいます。
つまり、正統的な「科学」は、「絶対的な真理」であり、それゆえ権威があるということです(笑)。
科学的に正しいことは、断じて「いままで間違いが証明されていない仮説」ではないのです。
と書くと、あまりにも馬鹿馬鹿しい冗談だと思って、思わず笑ってしまう人もいるかもしれませんが、残念なことにこれは事実なのです。
#まさに、私も昔は悪い冗談だと思っていたのですが…。

明治以来の伝統で、多くの日本人は科学を朱子学的に理解しています。
繰り返しますが、「科学=絶対的な真理」だから、疑うことは許されません!
ポイントは、

朱子学の特徴は、よくも悪くも徹底した理念主義である。理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える。これは、社会主義と似ており(後略)
出所:池田信夫ブログマガジン 2019年8月12日号

ということですから、「心理学」は絶対正しいのだから、それに反する「血液型人間学」は絶対間違っていないとダメなのです(笑)。

では、仮に現実のデータで血液型人間学が正しいと実証されたらどうなるのでしょう?

もちろん、朱子学的には絶対にそんなことを認めてはいけません!
なぜなら、「理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える」からです。

信用しない人もいるでしょうから、もう少し具体的に説明しておきましょう。

日本人の多くは、血液型と性格に関係があると思っています。ということは、「性格テスト」には、必ず血液型による差が現れるはずです。なぜなら、そう思っている人が多いからです。
念のため、これは私独自の考えではありません。

たとえば、統計学の権威である三重大学の奥村晴彦教授は、

日本や韓国など血液型性格判断を信じる人が多い国では,性格テストに現れる性格は,血液型に影響されてしかるべきである。「□型の性格は○○である」と聞いて育った□型の人は「自分の性格は○○だ」という先入観を持ち,性格テストでもそのように答える傾向があってもおかしくない。
出所:三重大学の奥村晴彦教授のサイト またまた血液型と性格

と言っています。
それだけではなく、実際に30万人ほどのデータの裏付けもあります。
知り合いの心理学者に聞いてみても否定する人はいません。

では、アカデミックな世界の「公式見解」はどうなっているのでしょうか?
日本パーソナリティ心理学学会のサイトにはこうあります。

われわれ心理学者は血液型性格判断を生み出した責任をとって[注1],自分たちで血液型と性格との関係について科学的なデータを集めてきましたが,そうしたデータからは血液型と性格の関係がほとんど確認できていないことはご存知の通りです。
[注1]血液型性格判断の基礎を作った古川竹二(1891-1940)は昭和の初めに活躍した心理学者・教育学者です。

予想通り「データでは関係が確認できない」あります。
見事に、「理念と現実が違うときは、現実が間違っていると考える」ということなのです。

これで、なぜ心理学会が「血液型人間学」を認めないのかを、きちんと“科学的”に証明することができました(笑)。

よって、いくら「血液型人間学」が正しいことがデータで示されたとしても、(少なくとも日本では)アカデミックな世界で認められる可能性は極めて小さいことになります。

では、どうすればいいのでしょう?
うまい方法はありませんが、朱子学の影響がない世界から攻めていくという方法しかありません。
これについては、地道に実行していこうと思います。


さらにやっかいな問題もあります。

儒教(朱子学)には「士農工商」という固定的な身分制度があり、「士」という科挙にパスした人しか政治を動かせなかったことです。
これが、「科学」にも適用されます。
つまり、科学を研究する資格があるのは、科学者に限られるということです。対して、私のような「在野」の人間が論ずることは、「身分」をわきまえない不届き者がすることで、トンデモ科学で怪しからんということになります(笑)。

いくらなんでも、これは言い過ぎで、そこまで酷くはないんじゃないの?と思う人もいるかもしれません。というか、そういう考え方が大多数でしょう。が、現実の「血液型と性格」の議論では、そういう論法がまかり通るケースもあります。

代表例を出しておきましょう。

シリーズ「血液型による性格診断を信じるバカ」第2回
ネットで話題「血液型と性格にはやはり相関性がある」の論文を徹底検証

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このブログのポイントは、

論文の客観的な評価には2つの指標がある。第一は代表的な権威ある雑誌に紙媒体として載ったかどうかだ。

もう一つは「サイテーション・インデックス(CI)」といい、論文そのものが他の研究者によって何回引用されたかを示す。

端的に言うと、「実績」のない論文は一切認めないということです。極論すれば、既存の研究の延長ならともかく、新進気鋭の学者の「新発見」などは全く相手にしないということになります。ましてや、私のような「在野」の研究者は問題外です。
これは、どう考えても「科学」ではありません。

この基準を採用すると「相対性理論」は否定されます。なぜなら、アインシュタインは相対性理論ではノーベル賞を受賞できなかったからです。というのは、相対性理論は、当時としてはあまりにも革新的過ぎて、誰も信じなかったからです。

逆に、この基準だと「STAP細胞」は正しいことになります。理由は、STAP細胞の論文は世界的な権威のある「ネイチャー」に掲載され、否定論はネットから湧いてきたからです。

もちろん、新進気鋭の学者の新発見が全部正しいということではありません。
内容も読まずに、実績のない論文を全く認めないのはおかしいということだけです。

科学は「権威」や「過去の実績」ではなく、やはり「内容」で勝負するべきではないでしょうか?

参考までに、井沢元彦氏さんによる「人間を身分だけで判断する」朱子学の解説です。

(10)平成25年2月19日、夕刊フジ「激闘の日本史(49)」(井沢元彦著)
<人間を身分だけで判断する悪癖>
松平定信が林子平を処罰した理由。
それは子平の著書である「開国兵談」[注:幕末の「黒船」来航を予言した書で、松平定信が主導した朱子学を正統な学問とした寛政異学の禁で発禁となった]の内容が誤りだと思ったからではない。
地方の藩の医者の弟という分際で、こともあろうに天下のご政道を批判した事、それ自体が許せぬという理由なのである。
これも実は朱子学の影響だ。
(中略)
特に定信のようなガチガチの朱子学徒はまず「こいつの身分は?」という目で人間を見る。そして身分が低いと判断すれば、どんな優れた意見であっても決して受け付けない。
いや正確に言えば、「身分の低い人間が優れた意見など言うはずがないと決めつけてしまう」ということなのである。これが朱子学の生み出す最大の偏見の一つだ。
出所:2016年3月31日 第164回「今月の映画」

【2019.8.17 追記】
近思録の現代語訳は、
近思録・・・朱子学をはじめて学ぶ人のための入門書
というサイトがおすすめです。
そのうち、血液型人間学批判については、
第十三巻 異端之学~聖人の教えに反した学問
が、ぴったりです。
読めばわかるように、

仏教・道教ともなると、その教えは一見すると理にかなっているようにみえます。また、その教説のたくみさは、楊子・墨子などとは比べものになりません。これが、仏教・道教の害がもっともひどい理由です。

学ぶ人は、仏教を「心を惑わす淫らな音楽」や「心を悩ます美しい容姿(肉体)」のようにみなして、それを遠ざけることが大切です。そうしなければ、あっという間に仏教にとりこまれてしまいます。(なぜなら、仏教の教えは一見すると理にかなっているようにみえるので、人はそんな外見のよさに惑わされて、中身を見誤ってだまされてしまう危険性があるからです)。

異端の教え(邪説)がひんぱんに耳に聞こえてきても、上にはそのいつわりを防ぐための礼法がなく、下にはその害を考え正すための学問がありません。ですから、昔から「偏った意見」「しまりのない意見」「よこしまな意見」「言いのがれの意見」がまとめて盛んでしたが、それらはすべて仏教から出てきていて、千五百年もそのままにされているのです。独り立ちして恐れず、心を純粋にして自分を信じ、だれよりもすぐれた才能をもっている人でなければ、どうして仏教の蔓延した世の中に立って、仏教と儒学の是非を弁別したり、仏教と儒学の優劣を判定したりすることができるでしょうか。

まさに、「洗脳」とか「騙される」とか、「血液型人間学批判」が言っていることそのものなのです。これらの文章を読んだときに、少々大げさに言えば「感動」しました(笑)。

【2019.8.17 再度追記】
この記事を書いているときに、ふと過去に議論したnさんの言説と、文章も内容も瓜二つなことを思い出しました。
イニシャルもn(難波さん)で同じだし、相当ベテランで実績のありそうな医師であることもそっくりです。
まぁ、単なる偶然の一致だとは思いますが…。
意外なことに、このnさんという方は、なぜか統計的な考え方には疎いようです。
たかがF検定ぐらいで驚かないでほしいです(苦笑)。
ぶっちゃけ、そういう人に統計的にどうこう言って欲しくはないですよね。[ちっ(怒った顔)]


コメント(8) 

コメント 8

欺善者

ついに自説は正しいと宣言し始めたんですか?!感嘆符まで多用して強弁していますね。AB型というのは何かを理由付ける習性があって、自己暗示みたいに自分に言い聞かせたり大義名分(理由)がないと動けなくなることがあるようで。

>科学的に正しいことは、断じて「いままで間違いが証明されていない仮説」ではない
shozoさんは、今まで間違いが証明されていない近藤説を「正しい」と仰っていますが、当時としては科学的に正しかった、しかし現在では間違いだと証明されたというのでは、正しかったのではなく、「正しいと思われていた」だけでしょう。例えば「天動説」のように、当時は正しかったのではなく、当時から事実としては間違っていた訳で、「当時は正しかった」という表現は、やはり言葉の観念や時間の感覚が異なるんでしょうか。私も、「今まで間違いが証明されていない仮説=科学的に正しい」では、「断じて」ないと思いますよ。

>“科学的”に証明することができました
shozoさんが証明した朱子学説は科学的に正しいということでしょうか。もし、間違いが証明されたら科学的に正しくなくなりますよね。その場合、科学的に証明したというのは何だったのでしょうか。科学的に証明されたことは正しいので間違いは無いということでしょうか。そうなると、shozoさんが証明した朱子学説は科学的に正しく間違いは無い、ということになりますが、間違いが証明されるまでは科学的に正しい、のでは「断じて」ないんですよね。それとも、科学的に正しいことと、科学的に証明されたことは別なのでしょうか。
それはshozoさん個人の判断基準(主観)で科学的に証明したと思っている「自称」であって、実際に証明されたかどうか、科学的かどうかは全く別だと思いますが。念のため、また周囲の人たちの意見を求めては如何ですか。それとも、shozoさんの高度な理論は凡人には理解出来ないと考えるのでしょうか。

それにしても、よくそれだけ人の頭の中を決め付けることが出来ますね。人の頭の中を見たんかいと言いたくなります。だから私の論理(文明度)は血液型だと決め付けたのでしょう。しかも、違うと言っているのに聞く耳持たず「いいえ」と決め付けるので、それこそエビデンスはあるのかと言いたくなる。ちょっと勘違いしやすいところがあるなと以前から感じてはいますが、やはり科学至上主義者は偏見や差別意識、思い込みが激しいのかも知れません。

言論界の論客も思想に基づいているので、人を決め付けているじゃないかと反発するかも知れませんが、思想というものの本質が分かっているので、その思想的考察が「科学的に証明された」などとは死んでも言いません、というか、そのような発想はありません。私はshozoさんの思想は左巻きの左翼だと思っていますが、誰も国家破壊を目論む革命戦士のマルキストだと考える馬鹿はいません。しかし、人の頭の中を勝手に決め付けられるとムカつくでしょう。血液型も同じことだと思います。

shozoさんの朱子学説というのは、井沢元彦や池田信夫などの主観に判断基準を依存していると思いますが、それは一つの物の見方に囚われた考え方に過ぎません。私の考えは散々述べたと思うので省略します。思想的な理論武装というのは、何度も言うように、個人の物の見方、考え方に囚われるのではなく、個人の判断基準には無い視点、物の見方、考え方を知って思考の方向を制御する鍛練を積むことで、それには思想的感覚が不可欠になります。血液型で理解武装というだけでは、血液型の範囲に物の見方、考え方が限定、拘束されてしまいます。

AB型が多角的思考が得意で色々な角度から物を見ているといっても、それは個人の物の見方、感じ方、考え方、判断基準という狭い範囲内の話であって、自分の判断基準には無い視点に気付かない限り違った世界は見えてきません。思考の落とし穴というのはそうい意味で、誰でも普通は自分の視点を基準にして物事を考えているのです。

それにしても、数字やエビデンス、科学というのはとても便利な言葉ですよね。それを謳う方が正しいかのように錯覚させる魔法の言葉で、それだけでも格好が付きます。ちょうど、民主主義、自由、平等、人権、寛容、護憲、平和、反基地、反戦反核、反原発、環境など、綺麗事の看板を盾に取る左翼とそっくりで、これには殆んどの人間が、「正義・正論を言っている」と簡単に騙されてしまいます。
そもそも、エビデンスや数字は真実を証明するものという認識は盲目的思い込みであって、数字なんてのは数字のみを表しているだけで、物事の本質・真実を証明するものではありません。自分はエビデンスや科学に基づいているから間違いないというのはとんでもない誤りで、そこから何を読み取るかは個人の主観に左右されるので、エビデンス=客観的というのも思い込みです。

エビデンスが無ければ議論しないなんていうのは、学問的姿勢にあるまじき態度で、エビデンスに依存しろ、エビデンスの中だけで物事を考えていればいい、視野や思考の幅を狭めろと言っているようなものです。エビデンスの中には無いエビデンスから独立した独自の視点、自分の意見や考えというものが無いのか、エビデンスに依存しなければ物も考えられないのかと思ってしまいます。
恐らくは、AB型が観念的な思想問題が余り得意ではないことは、朱子学説を見ても想像が付くのですが、思想的感覚の鍛練なくして人間理解には程遠いと思います。

by 欺善者 (2019-08-16 19:38) 

ABOFAN

>正しかったのではなく、「正しいと思われていた」だけでしょう。
科学は(数学などは別として)、基本的に「近似」です。ただ、普通は面倒なので「正しい」と言っていますが、正確に言うと「最も妥当な近似」ということになります。
>例えば「天動説」のように、当時は正しかったのではなく、当時から事実としては間違っていた訳で、
いいえ、地動説発表当時は、惑星は「円軌道」を描くとされていたので、天動説(周転円)の誤差とほとんど変わりません。よって、当時の天動説が科学的に「間違っていた」とは言えません。地動説の誤差が天動説より小さくなったのは、ケプラーが「楕円軌道」を提唱してからです。まず、当時の地動説、たとえばコペルニクスの言説を調べてみてはどうですか?
>shozoさんが証明した朱子学説は科学的に正しいということでしょうか。
まず、「近思録」を読んでみてください。現代語訳で読めますよ。たとえば、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980599?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F980599&__lang=en
なお、ここだけ「科学的」をカギ括弧「」ではなく二重引用符“”にしたのは、本当の意味で「科学的」ということではなく「いわゆる」ということで、朱子学的な意味で科学的という意味で、かなり皮肉を込めて書いています。
>エビデンスが無ければ議論しないなんていうのは、学問的姿勢にあるまじき態度で、
もうこうなると、科学的な議論ではないでしょう…。私にはお手上げです(苦笑)。
by ABOFAN (2019-08-17 07:02) 

ABOFAN

追記にも書きましたが、近思録の現代語訳は、
近思録・・・朱子学をはじめて学ぶ人のための入門書
http://www.1-em.net/sampo/sisyogokyo/kin/kinsiroku_1.htm
がおすすめです。
直前のコメントを書いたときは見つからなかったのですが、サイトが移転していたようですね。
by ABOFAN (2019-08-17 09:14) 

欺善者

お勧めのリンクを拝見しましたが、思想なんてものは要するに物の見方、考え方なので、ある一個人の考え方を持ってこられても、私なりの解釈になるため、shozoさんの望む方向にはなりません。理解出来ない奴は無能だと判断されるようであればそれまでです。
かなり濃い内容で勉強の出来る人が書かれたのだと思いますが、どれだけ難解で高尚なことを説いているように見えても、「孫正義」に関する記事などを見てこれは駄目だと思いました。私が著者・論客を判断するポイントは、どのような物の見方、考え方を持っているかなので、知識ばかり詰め込んだような内容自体ではありません。これは私の中に独断と偏見(笑)に基づく基準があるので仕方がないことです。実際に評価能力があるかどうかは別問題ですが。

私的には、能見氏の理論やデータを理解、再現出来ない者は、それなりのレベルだから仕方ないと思っています。誰が調べても同じ結果が再現できなかったのだから科学ではないという理屈でしょう。shozoさんがどれだけデータを突き付けても、各個人の基準に基づいて判断している訳で、理解出来ないもの、納得出来ないものは間違っている、理解出来ない物は悪、似非科学のデータなど見る必要はない、となってもおかしくはないです。ただ、そのようなメンタリティが朱子学的思考によるものとする見方は私とは違うだけのことです。科学的議論に拘ってお手上げだと苦笑せず、懲りずにお付き合い下さい(笑)。

20万人の結果を自ら出してしまったことを伏せているのは笑えますが、自らの基準で正しいと信ずる考え方にしがみつくのが人間共通の性質ですから。それは共産主義だろうが、朱子学だろうが、宗教だろうが普遍の法則です。私がもっと笑えるのは、自ら証明したことだろうと、それを逆手に取って合算しているshozoさんです。私なら奴等の数字など穢らわしいので合算しませんけどね。一体いつの間に30万もの数字になったのかと思ってましたが、内訳を聞いて呆気に取られました(笑)。

「再度追記」については、全く文脈が読めないので???ですね。

by 欺善者 (2019-08-18 10:20) 

ABOFAN

>かなり濃い内容で勉強の出来る人が書かれたのだと思います
彼は全然わかってないですよ。論より証拠で、全くデータによる反論がないのです(苦笑)。

>どれだけデータを突き付けても、各個人の基準に基づいて判断している訳で、理解出来ないもの、納得出来ないものは間違っている、理解出来ない物は悪、似非科学のデータなど見る必要はない、となってもおかしくはないです。
直接的な反論はほとんどなく、私の指摘を理解してしまった多くの人は沈黙しました。全く無視して自説を繰り返して主張している場合もなくはないですが…。

>20万人の結果を自ら出してしまったことを伏せているのは笑えます
なぜか人数と年数は「非公開」とのことです(苦笑)。
もっとも、その理由はわからなくもありません。
万が一、正直に「関係ある」とでも発表してしまったら、仲間たちから袋叩きになって、飯の食い上げになっちゃいますからね…。
ということで、もはや「科学」とは関係なく、「宣伝合戦」になってしまっているのが実態です。
マスコミに取り上げられないように、BPOを使って「差別」であるとレッテル貼りをしたのが、未だに効いています。
誰か声が大きい人がいませんかね。

>「再度追記」については、全く文脈が読めないので???ですね。
この「血液型による性格診断を信じるバカ」を書いた難波先生は、nさんと同一人物である可能性が大ということです。
by ABOFAN (2019-08-18 14:52) 

欺善者

データによる反論がないということは、そのサイト主に質問して反論が無かったということなんでしょうかね。それとも、記述上に「データによる裏付けが無いから」分かっていないのでしょうか。質問せずに反論が無いというのもおかしいですから、どのようにやり取りされたのか、論より証拠の内容が第三者には分かりません。彼は全然わかってない、とのことですが、思想にデータだの科学だのと合理性を持ち込むことの意味が分かってますか。

いや、科学的議論だけが正しい、それが無ければ議論しない、という閉鎖的な信念をお持ちでしたね。あのサイトを見ると、朱子学以外にも様々な方面に首を突っ込んでいて、中にはそれこそエビデンスはあるのかと言いたくなるようなものが溢れていますが、ここでは朱子学のソースとしてのリンクを貼ったのでしょうから。

変なリンクを勧められて話がズレてしまったので戻しますが、話の本質というのは、shozoさんは「科学的に正しいことは今まで間違いが証明されていない仮説ではない」と、“断じて”言いながら、「今まで間違いが証明されていない近藤説を正しい」と述べていた矛盾点にあります。天動説は、shozoさんが以前、意味不明の例えをされたのを当て付けに引用したのですが、誰も天動説そのものの話などしていないのに、天動説そのものについて講釈し出すなど、やはり物事の捉え方、解釈、本質がズレていると思います。

過去の発言を見てみると、

>エビデンスに基づく反論が皆無だった
>近藤説が数字に裏付けられていた時代に「まとも」な反論がなかった
>昔は誰も近藤説にエビデンスで対抗できなかったので、あれだけ流行った

などと、反論が無かったことは近藤説が正しいことの証明、とでも言わんばかりで、

>どんなにおかしな理論でも、現実の数字が説明できれば正しい
>現在はどうなのか知りませんが、一昔前に限定するなら、少なくともデータ上では近藤説が「正しい」ことは間違いない

などと、「正しい」「間違い」を易々と断じ切っているので、
「科学的に正しいことはいままで間違いが証明されていない仮説では、“断じて” ない」
のではなかったのかと思う訳です。

「現在はどうなのか知りませんが、一昔前に限定するなら、少なくともデータ上では」
などというのは、言い訳というか逃げ口上なんでしょうが、当時としては正しかったと今でも解釈する辺りが、言葉の観念や時間の感覚が他の型とは異なっているのかと感じます。天動説と常識の例えもそうで、現実ではないことの比較に何の意味があるのかと思うのですが。
今でも近藤説を正しいと思っているのか、現在では間違いだと分かっているのか、非常にAB型味に溢れた表現をなさるので良く分かりませ、いや、分かる気がします…。私の回りにもそんなのがいますが、矛盾点を余り追及すると怒り出したりするので(苦笑)。

>しつこいようですが、近藤説は発表当時は「正しかった」はず

などと、AB型が聞かれてもいないことを自己主張してくるのは、大体、良からぬ心の動き(笑)によるもので、近藤誠に関する過去の記事を書いていることからも、蒸し返されたくはないという牽制や先回りの意味があると思いますが、もう、証明され切ったことを振り返ったり、再考する必要などない、余計なことはするな、批判は絶対に許さないという態度の現れなんでしょうかね。

by 欺善者 (2019-08-24 20:29) 

欺善者

セクハラ野次の被害者で有名になった参議院議員の塩村文夏はAB型なので載せておきます。わざわざ外国人特派員協会で記者会見するのは、靖国問題や慰安婦問題の時と同じ典型的な左翼の手口です。要するに、被爆2世、差別被害者、動物愛護家という綺麗事の看板を掲げて「外圧」を利用した人権問題化です。塩村といえば、明石家さんまの『恋のから騒ぎ』で、「彼に妊娠したと嘘」「慰謝料1500万円貰った」などの発言が話題になりました。

塩村のプロフィール、思想・信条

広島県で被爆2世として生まれる
世の不条理や社会の生きづらさを変えたいと決意
「女性だから」という理由で雇用や賃金が差別されるなんてことが、この時代にあってはならない
私は世の中の“理不尽”と闘う覚悟
多様な民主主義の可能性を拓く第一歩
あなたと一緒に理不尽と闘う
現代に生きる女性とその家族の苦しみが理解できないのだと絶望し、涙が溢れました
被爆2世として、憲法9条の精神を大切にして、平和を守ります
原発ゼロを一日も早く実現するため、原発ゼロ基本法を制定します
多様な個性や価値観が認められ、基本的人権が尊重される「共に生きる社会」を実現します
動物愛護はライフワーク
私自身も疾患がわかり、卵子凍結を選択して未来に希望をつないでいる当事者
https://shiomura-ayaka.com/
https://shiomura-ayaka.com/profile/

41歳まで結婚せずに「活躍」して歳を取ったのに「疾患」と言い換えて卵子凍結しているらしく、それを世の中の“理不尽”のせいだと主張しています。塩村は芸能活動をしていて、慰謝料1500万円もせしめたのに「生活苦」は通らないでしょう。洗脳だの、騙されるだのという本当の意味が分かりますか。
現代のAB型は頭が馬鹿になっているという典型的見本で、市川房枝、田中眞紀子、稲田朋美、小泉進次郎、細野豪志、アントニオ猪木など、正義派ぶった偽善者ばかりです。現実の世に批判的などという綺麗事を言わないだけ他の型の方がマシかも知れません。もしかすると、ここを見たAB型の人の中には、これらの人物のどこがいけないのか意味不明なのかも知れませんが、それを理解するには左翼の概念などの思想的感覚が必要です。

能見氏はAB型の気質として、「合理性の怒りから現実の世に批判的」だと述べていましたが、「盲目的一律平等主義」で頭が馬鹿になっているいることに気付かず、市川房枝を「社会の不合理と闘う人権戦士」などと絶賛していました。物事の道理に反しないことが合理だと思いますが、AB型が不合理なことをやっているのに合理的だとするのは科学的事実でも何でもなく、科学と言いながら能見氏の個人的な道徳観、善悪という思想が混入してしまっています。

つまり、善悪の判断基準に科学や合理性を持ち込み、非合理に満ちた現実の世は悪で、それを批判するAB型の合理性は正義という、盲目的な物の見方です。それが大変な誤りであることは例に挙げたAB型が証明しています。だから、"その天皇観、道徳観は、いまだに修正しきれず" などという物の見方になるのでしょう。個人的な思想というのは科学には関係なく、能見説を再考する際の注意点です。

塩村文夏や市川房枝のような左翼思想を持ったAB型は大変多いので、統計で実証された科学的な「気質の傾向」だと能見氏は証明しました。私もそれを「ある条件下での心の反応の結果」としては、血液型と性格の関係を否定するものではなく、shozoさんが多用する「現実のデータで実証」されていると思います。日本社会がリベラル思想に染まっている環境下では確かに多く散見される反応です。

しかし、市川房枝の思想・精神が、左翼の「人権平等思想」に感染していなければあのような言動にはならないので、どんな思想を持っているかで心の反応は変わってきます。政府の制止を振り切って北朝鮮に渡航しているアントニオ猪木を見ても、行動、言動は思想、考え方次第だということが分かります。保守思想を持つ頭が健全なAB型では、あのような行動は全く考えられないことで、それが欺瞞の看板だと分かっているからです。

能見氏は、市川房枝の言動を血液型のフィルターを通して見ていたのですが、実は、血液型を通して市川房枝の思想・考え方を見ていることになります。気質と呼ばれるものは、物の見方、感じ方、考え方、つまり思想のことと言っても良いのですが、外部から影響を受けた特定のイデオロギーによって、物の見方、考え方、言動、心の反応が変化するようでは、「気質」という表現が適切なのかどうか、人間の精神の先天的なプログラムだと本当に言えるのかどうか。

市川房枝やAB型だけでなく、能見氏が観察した全ての日本人の性質というのは、血液型ごとに人間の行動、物の見方、感じ方、考え方、つまり思想を見ていることになり、その時代背景にある社会通念・思想文化(道徳、規範、常識、価値観、習慣、世相、風潮など)が反映されています。
個人個人の性格の集積が民族性や文化を作っているのではなく、人間の精神や個人の性格というのは、人間が育つ国・社会の思想文化の影響を強く受けて形成されたものであり逆です。

何型であろうと、劣悪な家庭環境、放任主義の無教育で育った者は、道徳規範や常識、人格教養を身に付けていないのは当然のことです。そのような者は経験的に学習で身に付けていくしかありませんが、個人差が激しいのは言うまでもないことです。日本暮らしが長い外国人も、日本の習慣、思想文化の影響を受けて、日本人のような性質・性格を身に付けていきますが、人間の精神とはそのような性質のものです。

となると、能見氏の言う「気質」の概念、定義が怪しくなってきます。能見氏は、先天的な「気質は決め付けられる」と言い、遺伝子にプログラムされた気質の傾向・類型・法則は全人類共通のものだとして、血液型が民族性や国民性、文化文明を作り、人類史を動かしてきたと説明してきました。つまり、血液型の先天的な気質は環境や思想などには左右されることなく、生まれる前から遺伝子レベルで決まっているという論理だと思います。なので、日本人、支那人、朝鮮人、白人、黒人などと、人種や民族、国籍で分けても気質に大差はない、という論理になるのでしょう。
私はこの部分で能見氏の定義する気質の概念に否定的です。能見氏は、先天的な血液型の気質の上に性格が形成されていくとして、野菜や肉などの料理に例えていますが、そのような説明では否定派を納得させることは難しいと思います。

私見では、性格とは、繰り返される習性(法則)、物の見方、感じ方、考え方、思考の傾向・方向性(思想)のことで、個人を識別する特徴、癖、個性、偏りといった性質のことであり、ある環境・状況下で心が反応した結果が個人の性格だと思います。
法則のように繰り返すのが「性格」の性質で、その人間の性格の中にも、血液型ごとの心の反応の傾向・方向性があり、類似性・共通性が見出だされる、ということだと思います。能見氏は、その類似性・共通性を「気質」と呼んでいますが、気質というのも、物の見方、考え方、感じ方という、思考の傾向・方向性のことだと思います。

心がどう反応するかは環境や思想によって変化し、その反応の仕方には血液型ごとの類似性・共通性が見られるということだと思いますが、環境や思想によって変化する心の反応が、環境や思想などに関係なく生まれる前から遺伝子レベルで決まっている、という論理には矛盾を感じます。
心がどう反応するかは先天的な血液型の気質で決まっている、と固定的な概念で定義したところで、環境や思想によって心の反応が変化するのは間違いないので。だから血液型の気質というのは、人間の思考に傾向・方向性、偏りといった性質、つまり性格を与えること、即ち、物の見方、考え方・思想だと思うのです。

血液型と思想と性格は不可分の深い関係にあることがお分かり頂けるでしょうか。私はそのような観点から人間の精神や、能見説の再考についてshozoさんと議論したいと思っているので、何か御意見を頂けると有り難いです。ユダヤだの、共産主義だの、左翼だの、朱子学だの、政治だの、歴史だの、世界情勢だのはどうでもいいことで、それら自体の議論などではなく、血液型と思想と性格の関係、つまり人間の精神の構造、心の仕組みについて良い議論が出来たらと思います。
血液型が同じでも性格は違うとか、気質には当てはまらない例外があるからデタラメだとか、思い込みだとかのよくある批判に対し、確率や傾向、統計的数字やデータなどでしか反論出来ていなかったのではないかと思いますが、物事の判断基準を数字やデータ、理論法則などの知識量だけに頼っていると、それに囚われて物事の本質や矛盾の考察が疎かになるので、理論武装をより強固にしようというものです。

人間は自分の性質には全く無知で自身を制御出来ず、自らの性質に振り回されて人類を混迷の歴史に追い込んできました。「心の専門家」も肩書きだけで何も分かっておらず、本当の意味で人間の性質を良く知っているのは、多くの思想家・哲学者、宗教学者、心理学者・精神医学者を輩出しているユダヤ人だけです。彼等の学説は、人間の持つ性質を利用して人類を争いと混迷に追い込むために作られた虚構です。
能見氏は、血液型で人間を制御することを訴えていましたが、気質よりも本当の意味で制御しなければならないのは思想であり、理論や法則に自縄自縛される人間の性質だということを歴史は示唆しています。人間が自らの考え方・思想にのめり込む、つまり性格(性質)に縛られるのは、精神構造上の宿命だと理解する必要がある訳です。

by 欺善者 (2019-09-01 06:06) 

欺善者

人間には個人特有の思考パターンがあって、筆跡のように個人を識別する癖、特徴、偏向性があるのですが、個人の習性(性格)に基づくもので、性格は法則のように繰り返す規則性があります。思考パターンとは、考え方の癖、傾向、方向性のことであり、個人的な論理・思想のことです。思考パターンというと、血液型の気質の類型のことだと思い込むかも知れませんが、経験や知識など後天的に学習した影響が大きく、物の感じ方など、個人特有の判断基準によるものです。

例えば、犯罪捜査に於いて手口や行動のパターンを読むというのは、個人の思考パターンを読んでいるのであって、そこには筆跡のように個人の特徴、癖、性質が表れています。個人の思考というのは後天的に学習した要素が大きいので、道徳心が欠落している犯罪者に一般人の気質パターンを当て嵌めて分析したところで、実態から掛け離れてしまいます。
血液型が気質のパターンを読んでいるように、思想的考察というのは思考のパターン・論理を読むことであって、人間の精神や性格というのは、考え方・思想のことだと言う所以でもあります。

なので、左翼の行動原理を知ろうと思ったら、その思想の論理、思考パターンを読まないと彼等の頭の中は理解出来ません。政治家が何を考えているのか、思想・信念を読まないと人間の行動は分からないのです。彼等は血液型の法則で動いているのではなく、思想の論理で動いているからで、特に、政治面で同じ思想信条を共有する人間は、血液型の見分けが付き難くもなります。とは言っても、自由、平等、人権、平和、護憲、反戦反核、民主主義(主権在民)など、お決まりのユダヤの革命思想(リベラリズム)を其々の基準で解釈し、政治信念・信条としているだけですが。

正確に言うと、能見氏が観察した血液型の気質というのも、日本社会の思想・文化・文明が反映された結果としての、日本人の心の反応なので、血液型の気質と思想が全く別のものであるかのような表現は本当は正しくないのですが。
能見説の血液型の気質には、日本社会の思想・文化・文明、つまり、伝統的な日本人の民族性・国民性と、時代背景(社会通念・世相)が含まれているという意味で、思想・文化が人間の性格形成に影響を与えているということです。先天的な血液型の気質が文化や民族性を作り、政治を動かし人類史を左右してきたというのは、思想的観点が無い能見氏の拡大解釈だと思います。

極端な例ですが、人間に躾や教育を施さないと、狼に育てられた人間のように野生化するのではないかと思います。人間は文明度に応じた文化の衣を纏っていますが、無教養の愚者(アナーキスト)ほど道徳心が欠けていて文明度(民度)が低く、人間らしい心よりも本能的な野獣に近くなると思います。文明度というのは道徳規範といった思想・文化に比例していて、文明度が低いほど道徳観や文化性、論理性に乏しくなります。
ユダヤ人のルソーは、人間を文化を持たない未開の自然人(原始人)に回帰させよと、躾や教育を否定していましたが、革命で暴れるような道徳心の欠如した無法者、アナーキストに育てよということです。血液型の気質が遺伝子に刻まれた先天的なプログラムということで、人間が何の努力をすることもなく先天的に道徳心を持って生まれて来るのなら躾や教育などは不要でしょう。

グロサイトにある膨大な動画を見れば分かりますが、アナーキストが跋扈するイスラム地域や、メキシコ、ベネズエラ、ブラジルなどの南米では、生きたまま人間の首や全身をバラバラに切断したり、顔の皮を剥いだり、眼球や心臓・内臓を抉り出したりと、凄惨な行為が当たり前のように行われていて、人間らしい心(道徳心)が失われると、人を殺すことも平気になるようです。人権や法の支配という文明が無い、本能的な野獣の世界と同じです。
日本でも川崎や京都、それに相模原や座間のような事件も珍しくなくなって久しいですが、彼等の精神状態を「サイコパス」などと、病的異常視、猟奇的特別視するのは、精神病の場合を除き疑問があります。グロサイトを見ていると、そのような特殊な精神状態にあるのではないと思います。

共産主義の真の狙いというのは、「人間獣化計画」の名が示すように、人間の精神を蝕んで本能的な野獣に回帰させることにあり、シベリア抑留で赤化教育を受けた日本兵は、人間性が別人のように変貌してしまったことが知られていますが、日本赤軍や連合赤軍、中核派や革マル派などの過激派・テロリストが起こした数々の事件を見れば、共産主義思想に取り憑かれた人間の精神が野獣化するのは間違いありません。
思想が人間の精神・性格形成に大きな影響を与えているのですが、性格とは考え方の傾向・方向性のことであり、思考のパターン・思想のことで、血液型は人間の思考に傾向・方向性、偏りという、習性・性格を与える働きがあると思います。


何やらTwitterウィジェットで、同じ血液型同士の外国人が同じ性格なわけない、とのスレッドを見掛けましたが、それに対する反論は相変わらず、データ、数字、計算、サンプル、有意、統計、科学、ソース、エビデンスなどの繰り返しだけですね。いつも、血液型と性格の関係はデータで科学的に実証されているという主張ばかりで、言葉による論理的な説明が全くなされていないので、人間の心については何も分かりません。「論より証拠」の証拠はもう十分ですから、数字や計算結果だけを求める機械的な理論が聞きたいのではなく、言葉によるロジックが求められていると思います。

「ロシア人のA型とイタリア人のA型が同じ性格のわけないだろとか、性格がたったの4種類に分類できるわけがない、とかでは全然否定できてない」というコメントがありますが、論点がズレているのでもっともでしょう。それらは数字で説明することは出来ないので言葉による論理が必要ですから。
同じ血液型でも同じ性格でないことは誰にでも自覚出来るので、血液型が非科学的だと思われてしまう大きな理由の一つだと思いますが、恐らくは一番納得のいく説明が聞きたいことではないかと思います。しかし、能見氏の肉や野菜の料理の例えや、先天的気質と後天的性格の例えでは、抽象的過ぎて聞き手に想像力が要求されるので限界があると思います。

by 欺善者 (2019-09-14 21:16) 

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