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新装版『「ニセ医学」に騙されないために』、発売です。 [新刊情報]

新装版の『「ニセ医学」に騙されないために』が発売になりました。

新装版「ニセ医学」に騙されないために ~科学的根拠をもとに解説

新装版「ニセ医学」に騙されないために ~科学的根拠をもとに解説

  • 作者: 名取宏
  • 出版社/メーカー: 内外出版社
  • 発売日: 2018/11/29
  • メディア: 単行本

出版おめでとうございます。
著者のNATROMさんのブログに、自らのメッセージがあります。
#著者の名取宏さんは、NATROMさんのことです。

2018-11-29 新装版『「ニセ医学」に騙されないために』、発売です。

ただ、この本の「はじめに」の中に、ちょっと気になる文章を発見しました。
「ニセ医学」とは、医学のふりをしているが医学的な根拠のない、インチキ医学のことである。大雑把にくくれば、ニセ医学はニセ科学に含まれる。ニセ科学とは、科学のような見かけをしているが、科学的な根拠のないものだ。たとえば、血液型と性格には強い関係があるという『血液型性格診断』(以下略)


確か、10年ほど前のNATROMさんは、「血液型と性格には強い関係はない」ではなく、単に関係がない(認められない)と言っていたはずです。また、統計的に有意な差はないとも言っていたはずなので、コメント欄で質問してみました。

○コメント(その1)2018.12.2付
貴サイトには「血液型と性格の関連の肯定論者の提示する論理や証拠には問題がある」[http://natrom.sakura.ne.jp/Blood.html]とありますが、以下の点については前著にも何の記述もないようです。現在では、次の2つの主張は撤回されたということでよろしいのでしょうか?
1. 現在、ABO式血液型を用いた相関解析は、胃腸管に関するいくつかの形質との間に弱い相関関係が認められること以外は、信頼に値するとは考えられていません。(Risch, 2000)[http://natrom.sakura.ne.jp/Blood.html]
→永田宏氏の「血液型で分かる なりやすい病気・なりにくい病気」(ブルーバックス 2013年)などにより否定された…膵臓がん O型に比べB型は1.72倍のリスク、エコノミー症候群(肺塞栓症) O型に比べ非O型は1.86倍のリスク、脳梗塞 B型、AB型はO型と比べて1.59倍のリスク etc.
2. 2003.5.16付けのメール
>「統計データがあればメカニズムは無視してもいい」と考えます。
> …私が問題にしているのは、メカニズムの不在ではなく、統計データが不十分であることです。
→武藤・長島氏らの科研費成果報告書により否定された…【概要の抜粋】血液型と性格に関する解析では、過去の研究結果を拡張することができたとともに、21世紀以降のデータでは、安定して血液型ごとに性格の自己申告について有意な差が出ることが判明した[教員養成課程における科学リテラシー構築に向けた疑似科学の実証的批判的研究(2012年) https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-22650191/]

残念なことに、NATROMさんからは何の反応もなかったのですが、att460さんからコメントがありました。

○att460
“教員養成課程における科学リテラシー構築に向けた疑似科学の実証的批判的研究”の“2011 年度 実績報告書”より
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-22650191/226501912011jisseki/
>(2)21世紀以降のデータでは,安定して血液型ごとに性格の自己申告について有意な差が出ることが判明し,血液型性格判断の蔓延が性格の自己認知に影響を与えていることがわかった.

natrom1812030430.JPG

そこで、私は次のようにコメントしました。

○コメント(その2)2018.12.3付
>血液型性格判断の蔓延が性格の自己認知に影響を与えていることがわかった.
仮に、武藤・長島氏らが言うように「思い込み」の影響があるとするなら、
a. 能見正比古氏の著作の出版された1971年以後の調査で、「A型は几帳面」のような質問なら、少なくとも見かけ上は必ず「安定して血液型ごとに性格の自己申告について有意な差が出る」ことになります。つまり、「統計データが不十分」は論理的に成り立ちません。
b. 心理学的には「自己認知の性格」をその人の性格としています。自己認知の性格には必ず「血液型性格判断」の影響があるということなら、自分の性格に関する調査結果は全く信用できないことになります。これも論理的な結論です。
c. 現実のデータを基にして、直接的に「思い込み」が存在することを実証した論文は、私が知る限りありません。
おそらく、これらが私の以前のコメントがNATROM氏に削除された理由でしょう(苦笑)。
だから、現在は「強い関係はない」と言い換えているのかもしれません。

その後はなぜか誰もコメントしないので、畳みかけるようにさらに次のコメントを付け加えました。

○コメント(その3)2018.12.3付
遅ればせながら、新著の出版おめでとうございます。
念のため、削除された内容を再掲しておきます。
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直前のエントリーには、
> 2013-07-16 化学物質過敏症に関する私の発言について
> 質問者に議論する能力が欠けており無視されて当然である(というかむしろ正常な議論の妨げになるために相手にしてはならない)ことが既に周知されているならば、質問を無視していても信用は落ちません。
とありますが、ひょっとして、これが私の質問に答えない理由なのでしょうか?
が、名指しではないのでなんとも判断できませんし、抽象的な基準では意味不明です。
念のため、もう一度NATROMさんが未回答の私の質問を書いておきます。
-----
2003.5.16付のNATROMさんからのメールですが、
> 「統計データがあればメカニズムは無視してもいい」と考えます。
> …私が問題にしているのは、メカニズムの不在ではなく、統計データが不十分であることです。
代表例ですが、
A. 自分の性格の評価に血液型ステレオタイプが与える影響 工藤 恵理子(東京女子大学 2009)
 全体として、血液型ステレオタイプに合致するような自己評価が認められた
B. 血液型性格項目の自己認知に及ぼすTV番組視聴の影響 山岡 重行(聖徳大学人文学部 2006)
 高受容群では11項目で血液型の主効果が認められ、低受容群でも2項目で血液型の主効果が認められた。 
C. 潜在的な血液型ステレオタイプ信念と自己情報処理 久保田健市(名古屋市立大学 2007)
 特性語の種類の主効果(F(1,32)=9.80, p<.01)と特性語の種類×参加者の血液型の交互作用(F(3,32)=3.22, p<.05)が有意だった…定義づけ課題の結果についても,同様の2要因分散分析を行ったところ,特性語×参加者の血液型の交互作用が有意だった.
http://abofan.blog.so-net.ne.jp/2009-10-25
念のため、これらの論文の結論は、
A.「血液型ステレオタイプに合致するような自己評価が認められた」
B.「血液型の主効果が認められた」
C.「交互作用が有意だった」
は、要するに「統計的に有意な差があった」ということです。
ぜひ回答をお願いします。

ところが、なんとこれらのコメントは直後に削除されてしまいました!

○名取宏(なとろむ) (id:NATROM)
ABO FANさんは、このブログにおいての発言は禁止です。詳しくは[ http://natrom.hatenablog.com/entries/2013/09/07 ]のコメント欄を参照してください。一部引用いたします。
***********************
2013/09/08 12:15のコメントで行った警告にも関わらず、ABO FANさんはエントリーの主題との関連性に乏しいコメントを行いましたので、今後は「NATROMの日記」におけるコメントを一切禁止します。これまでは温情で「血液型のエントリー」でのコメントは許可していましたが、これからは「血液型のエントリー」でのコメントも禁止です。
私の主張が『「統計的に差がない」→「統計的に『大きな』差がない」(=小さな差があることは否定できない)に変わ』った、というのは事実ではありません。もし事実であると主張したいのであれば、ABO FANさんはここではなくご自分のブログで、具体的に根拠を挙げて論じてください。
「遺伝学からみた血液型性格判断 ( http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/Blood.html )」では、当初から『私は「ABO血液型と性格には関連がない」と主張しているのではなく、「広く信じられている血液型性格診断が言うほど、ABO血液型と性格には強い関連があるという証拠はない」「血液型と性格の関連の肯定論者の提示する論理や証拠には問題がある」と主張していることに注意してください』と書いています。私に限らず、「関連の強さ」を念頭に置いた血液型性格診断に対する批判者は複数います。その上で血液型性格診断が批判されているのです。
ABO FANさんはすでに議論を行う能力を持っていないとみなされています。たとえば、「血液型性格判断問題についての確認(kikulog) http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1256972977 」を参照のこと。にも関わらず、「血液型のエントリー」でのコメントを私が許可していたのは、これまでの悪評を払しょくして議論が可能な相手であると見直されるチャンスがあっても良いだろうと考えてのことです。今後はご自分のブログで頑張ってください。
***********************

読めばわかるように、まっとうな回答にはなっていません。
#「ご飯論法」ですかね?
行間を読むと、「強い関係」は否定しているものの、「弱い関係」あることは積極的には否定していないとも思えます。
いずれにせよ、速攻で削除するほどのことでもないと思うんですが…。

さすがに、NATROMさんの支持者でさえそう思う人もいたようで、アーバン北村さんは「あと書き込み削除はやらない方がいいのでは^^;」とあります。

奇妙なことはまだ続きます。

NATROMさんのブログは、普通は1ヶ月サイクルの更新なのに、(たった!)1週間後の12月5日付けに新たなエントリーがアップされました。

2018-12-05  『ワールドトリガー』再開を祝って福岡市の玄界島の魅力を紹介します

これがやたらに長く、しかもニセ医学とは直接関係ない「ワールドトリガー」の話題なのです。
過去の傾向からすると、ほとんどがニセ医学の話題なので、正直かなり奇異な感じがします。
そして、その1日後にも新しいエントリー『紛らわしい「ニセ医学」~免疫療法と幹細胞療法』がアップされました。
ひょっとして、私のコメントを削除したことを知られたくない、というのは考えすぎなのでしょうか?


コメント(1) 

コメント 1

欺善者

科学は物質主義のユダヤ人が生み出した思想ですが、理論で物事を考え法則に従うという、思考を拘束する作用があるので、現実離れすることがあります。特に、名取宏のように科学に拘るような者にはその傾向が強いですが、科学だからと思い込むことは、宗教のように信じ込んでいるようにも見えます。物質が分かれば性質が分かるという物質主義も、自然科学の手法には限界があります。
どうも人間というのは思想に拘束されるように出来ているようで、論理や法則、原理原則、主義主張、信念など、何らかの思想を必要としているのでしょうが、人間が宗教を生み出した理由が分かる気がします。

物の見方や考え方、視点・観点の違いなど、思想を巡って争い合って来たのが人類史ですから、考え方に囚われたりしがみ付くのは人間性の本質なのでしょう。宗教戦争や共産主義が人類に及ぼした害悪を考えると、悪い思想が人間の精神を狂わせるのは明らかで、精神を健常に保つには良い思想が必要だということを示していると思います。無信念だと目的を持たなくなり、物欲享楽を追求する本能に流される人間になりやすいですが、物質文明社会に於いてはそのような者が大量に溢れかえっています。

戦後の日本では身を寄せ合って助け合って来ましたが、経済的に豊かになると独立して助け合わなくなりました。自由競争社会では利益を最優先することを強いられて、家族を持ち子孫を残すという自然の本能が蔑ろにされがちですが、自然の本能を捻じ曲げることは他の生物では見られないことです。そのような物欲追求主義のユダヤ思想が社会の価値観となり少子化に繋がっていますが、民族衰退と国家の破壊が仕掛けられているのです。
共産主義は道徳と教育を破壊して、人間を動物本能に回帰させ「獣化」することが目的ですが、道徳心が欠落した無教養の愚か者が、革命や暴動で暴れるようなアナーキスト、アウトローになるのは簡単です。社会の秩序には道徳倫理が不可欠で、道徳で秩序が維持出来ない社会は恐怖政治しかありません。

また、性道徳がなくなると恥の感覚が麻痺して、フリーセックスや自由恋愛、不倫なども平気になり、家庭破壊にも繋がっています。AB型の例で言えば、林葉直子、小向美奈子、喜多嶋舞などの芸能人を思い出しますが、喜多嶋を除いて子供もおらず、享楽主義者の見本のようなものです。リベラリストの能見氏は、フリーセックスや自由恋愛の風潮に被れていたので、彼女らの行動を、自由奔放だの、プレイガールだの、多角恋愛だのと、格好良く描いてしまいかねません。
小向美奈子が逮捕された時、大きく胸元が開いた服を着てきて虚勢を張っていましたが、格好悪く惨めなのは嫌だという強がりにしか見えませんでした。林葉直子のHPの不倫に関する記事などを見れば分かりますが、自由恋愛、フリーセックスのリベラリズムに強く感化された精神を持っています。

能見氏は現代社会に於いて、あのようなタイプのAB型の行動を捉えていましたが、もし、日本社会がリベラリズムに汚染されておらず性道徳が保たれていたら、あのようなAB型の気質を観察する機会に恵まれなかったと思います。例えば、性道徳に厳格なイスラム社会でAB型が生活していたら、不倫だの自由恋愛だのは不可能な環境だからです。
だから能見氏の学説は、リベラリズムの病理に蝕まれた日本の環境に於ける、日本人の気質ということになると思いますが、その日本人を分析した血液型の気質が、科学だから血液型は民族や人種を越え、環境違いの外国人にも大差なく当てはまると考えるのは、現実離れした論理の飛躍であると思います。平等主義、人類皆兄弟のリベラリズムに感化された、能見氏の個人的な思想の影響かも知れませんが、勇み足だと思います。

能見氏が分析したのは、あくまでも日本社会の日本人であって、支那人や朝鮮人などの外国人を分析した訳ではありません。支那人や朝鮮人というのはよく似ているのですが、道徳心が欠落していて秩序を乱す、平気で嘘を付き約束や決まりを破る、かつては食人習慣があり野蛮で残虐な性質を持つ、など、挙げたらキリがありません。彼らは戦前から多くの日本人を凄惨な方法で虐殺し続けてきたのですが、そのことは、日本人が支那人・朝鮮人を虐殺したことにされてしまいました。
彼らは日本人の民族性とは正反対の民族性を持っていますが、もし、能見氏が知ったら驚いたことでしょう。日本で育った在日朝鮮人を知っていますが、やはり民族の気質、民族性というのは基本的に変わっておらず、彼らは集まるとお決まりのアイデンティティの話ばかりしていて、いつまでも変わらない性質を保持しています。在日朝鮮人の中には日本人と同様の道徳心を持ち、日本社会に同化している人が少数いますが、多くは道徳心が低いが故に同化出来ず反日的です。

そのような現象はユダヤ人にも同じことが言え、二千年位前に国を失って以来、寄生先の国にも同化することなくユダヤ人のアイデンティティ、つまり、民族の精神性・民族性を保ち続けてきたのは驚くべきことです。それぞれ環境が違う様々な国で長期に渡って生活してきたのに精神性を失わなかったのは、ユダヤ人だという意識と自覚、ユダヤ教という思想の成せる技だと思いますが、やはり文化・思想というのは、精神性を保持する鍵ではないかと思います。
道徳も思想の一つですが、例え日本人であっても、道徳心に乏しい者は反社会的で、嘘を付かず誠実、約束や決まりを守る、勤勉といった、日本人の民族的性質が当てはまらない者がいますが、例えば、それがA型だった場合、血液型なんて当てにならない、非科学的だと言われてしまうこともあるでしょう。日本人の民族的特徴というのは本当にA型の気質なのか、何故、A型であっても道徳心のない支那人や朝鮮人は反社会的なのか、思想と民族性の関係、気質の再考が必要な気がします。

在日朝鮮人の場合、朝鮮母国ではなく日本という環境で育ったのに、朝鮮人の保持している精神性は、反日主義、事大主義、そして道徳心の欠如から来る反社会的性格という、朝鮮本国人と全く同じ性質で、朝鮮人だという自覚と意識、つまり思想が人間の精神に影響しています。儒教の事大主義は反日思想と相性が良く、支那人・朝鮮人に共通した思想です。
戦後73年が経過しても支那人・朝鮮人は、ユダヤ人から植え付けられたデタラメの反日思想を、親などの先人から受け継ぎ、被害を受けたと信じ込んでいます。今現在も日本人を呪詛する性格はそのまま何も変わっておらず、意識改革というか思想転向しない限り、人間はその性格を保持し続けるのでしょう。左翼を見れば分かりますが、ユダヤ人が作ったデタラメの左翼思想にしがみ付き続けており、思想が性格に与える影響は根深いものがあります。

反日などの悪しき思想教育、プロパガンダなどの思想戦というのは人間の性格・精神を歪める恐ろしい物で、世の中を狂わせる元凶です。思い込み・信じ込みから目を覚まして意識改革しない限り、人間は自らを思想で呪縛し続けるのでしょう。このような人間が持つ思考性は、他の動物には見られない特徴であり、良い考えを持てば素晴らしい仕事を成し遂げるというのに、人間が進化を手に入れた代償かも知れません。
人間は思想に縛られ振り回されやすいという、人間が持つ思考性の欠点を自覚し、自縄自縛の無限ループに陥らないためにも、この人間が持つ性質を知識として知っておく必要があります。能見氏が背を向けたイデオロギーにこそ人間性の本質があると思いますが、思想は尖鋭化すると過激化することがあります。

ところで、世界はほぼ、セム系一神教に席巻されてしまったのに、日本だけは決して呑み込まれず、クリスマスなどの文化としてしか定着していません。信仰の自由で保証されているというのに、日本人は精神的には受け入れておらず、自然に浸透することはありませんでした。キリスト教徒に成り済ましたマラーノのユダヤ人宣教師たちは、列強の植民地の侵略手段としてキリスト教を使い、原住民たちの精神ごと乗っ取りました。
日本はそれを退けて来たので、伝統文化が断絶されずに残っているのですが、日本人の精神性・民族性、お国柄、つまり国体を、共産主義の精神侵略から守ろうとしたのが大東亜戦です。

何故、あの時、天皇陛下万歳ということが言われたのか、現代人には不思議かも知れませんが、共産主義がフランス革命・ロシア革命のように、皇室の打倒と国家の破壊を目的としていたからで、だから降伏条件は国体護持に拘ったのです。日本人の精神性・伝統文化を守るためだったということは、現代の日本人には理解不能でしょう。でも、それがあるが故に、日本人は精神的にキリスト教イデオロギーを受け入れておらず、民族性を何とか保っているのです。
ドイツ革命では皇帝がユダヤ人に騙されて勝手に退位、亡命させられてしまいましたが、天皇陛下はお気持ちを述べただけなのに、いつのまにか退位が規定路線になっています。しかも、譲位とは言わず退位と呼び、即位の日を一日ずらして皇統を断絶させ、5/1という「万国のプロレタリアートが団結して権利を要求する日」に持ってきたことに悪意を感じますが、やはりドイツ革命の例を思い出します。

by 欺善者 (2018-12-09 02:26) 

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