SSブログ

農業の歴史と文化のアゴラ 稲作伝来説の再考 [ゲノム解析で古代史]

自分のための備忘録です。
稲作伝来についての資料となります。

農業の歴史と文化のアゴラ
稲作伝来説の再考

古代中国の中原や、朝鮮半島の風土の下では農業は畠・畑作が主流になる。そこに、農法の段階に進んでいた「中国型」の稲作が伝えられても、 畠作や焼畑という農事や農術を取り込みながら狩猟や採集に比重を置いていた人々には、格差・相違が大きすぎて、とても受容することはできない。
 また朝鮮半島では前稿で述べた水田作を行うための必需農具である「畦塗り具」の検出が、わが国の弥生時代中期に相当する新昌洞遺跡から出土した 卓球のラケット状の至って素朴なものが初出となる。菜畑遺跡では「諸手鍬」と効率的だが、新昌洞遺跡の出土品はそれよりはるかに後進性を示す。 朝鮮半島での木製農具の検出は畠・畑作用の物が多く、水田遺構も「中国型」には不向きな小区画水田で、稲作での先進性はみられない。

とのことで、確かに「中国型」の稲作を弥生時代の日本で「そのまま」取り入れることは不可能だったでしょう。菜畑遺跡や吉野ヶ里遺跡は、当時は海の近くですし…。

だから、渡来人が当時最新の稲作技術を持ってきて来ても、「宝の持ち腐れ」だったんでしょう。ただし、大陸系磨製石器は大いに使われたようです。

そもそも稲作の朝鮮半島伝来説は、考古学調査によって早くに南京遺跡や松菊里遺跡でコメを検出し、わが国での朝鮮半島系遺物とみられる大量のモノの検出がありながら 水田遺構の検出が遅かったところから推測として唱えられ、それがモノと農業技術の相違を認識することもなく、繰り返し述べられてきたことによって 定説となってしまったようである。また定説には「灌漑水田稲作」と、近現代に行われる「中国型」稲作法が唯一の方法であるとの認識も含まれている。

となると、使えるものは使い、そのまま使えないものは、日本の実情に合わせるために試行錯誤を繰り返したということになります。確かに、こう考えた方が納得できます。

農業は工業製品じゃないので、現地の気候風土に合わせないとうまくいきませんから…。

そして、北部九州のパイロットプラントで成功した技術を、朝鮮半島南部も含めて徐々に各地に展開したのでしょうね。

こう考えると、水田稲作は、日本の方が朝鮮半島より早いという考古学的な事実とうまく整合します。
コメント(0)