軍事・経済情勢で読み解く「邪馬台国」と「空白の4世紀」の謎【追記あり】 [ゲノム解析で古代史]
前回の続きです。
その後いろいろ調べましたが、発掘された当時の祭祀物品(銅矛・銅鐸など)や鉄器の分布を見ると、自ずから結論は明らかなようです。
出典 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
~弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生~
・参考1 時代別にみる人口と鉄器の分布
・参考2 弥生のテクノポリス
出典 邪馬台国大研究
弥生時代の日本は、朝鮮半島南部から青銅や鉄(砂鉄?鉄鉱石?)の原料を輸入していたとのこと。
青銅については、合金を構成する鉛の同位体の分析結果によると、朝鮮半島だけではなく、中国北部からも相当の原料を輸入していた(一部は中国中南部も?)ようで、これがゲノム解析の結果で弥生人に中国北部からDNAが入ってきた理由でしょう。
出典 鉛同位体比分析による古代朝鮮半島・日本出土青銅器などの原料産地と流通に関する研究
松帆銅鐸、最古の埋納か 淡路島から出土
鉄の原料の輸入については、中国の記録にあるとのこと。
弥生時代は鉄器時代か(No.65)
青銅器については、出雲を中心とした地域に銅鐸が広まっています。銅鐸は祭祀に使ったと考えられていて、これが出雲系のパワーの源だと思われます。
北部九州+大阪の銅矛(邪馬台国)、出雲+近畿(大阪除く)の銅鐸は文化圏が違うわけですから、この2つの勢力の対立が2世紀の倭国大乱の原因ということでしょう。
【再掲】銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
~弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生~
この争いは、最終的にはより多くの鉄器が入手可能な邪馬台国側が勝利し、その後の古墳時代になると、ヤマト王権の強大なパワーを誇示するように、巨大な前方後円墳が大和などの近畿地方で続々作られるようになります。逆に、出雲の象徴であった四隅突出型墳丘墓と銅鐸は、歴史の舞台から静かに去って行きました。だから、奈良時代に銅鐸が発見されても、なんだかわからなかったわけです。
出典 四隅突出型墳丘墓(Wikipedia)
それまで、日本の政治経済の中心が北部九州だった理由は、朝鮮半島南部から貴重な資源や技術を輸入していたからでしょう。しかし、その後に日本国内が統一されれば、人口重心に近い近畿地方に遷都した方が有利なことは、考えるまでもなく明らかではないでしょうか。
この一連の過程で、卑弥呼が祭祀を行う女王の地位に就任し、倭国大乱が終息したということになる…はずです。
大和遷都に伴い、習俗や祭祀も変えたわけですから、開化天皇(新しい文化を取り入れる)→崇神天皇(新しい神を崇拝する)という漢風諡号もぴったりですし、考古学的な時代考証もばっちりです。崇神天皇の諱が、始祖を示す「ハツクニシラス」なのにも納得です。
ただ、まだまだ謎は残っています。
邪馬台国が大和に遷都したときに、大和の豪族が天皇家になったのか、それとも北部九州から移動したのか…。また、北部九州から遷都したときに、男系が変わったかどうかもわかりません。
中国の記録では、「後漢書倭伝と魏志倭人伝には、倭国大乱によって倭王の座が移動したとあります」とあるそうです。
邪馬台国の謎を解く年代復元
素直に考えると、大和の豪族だった天皇家が出雲や吉備を吸収合併し、そのまま日本国王に祭り上げられたことになります。これは、「神武東征」や魏志倭人伝にある倭王武の「上表文※」とも整合的です。
※先祖たちの昔からの活躍により、倭国は、東に55国、西に55国、北に95国を平定する大国となった。
現代の会社にたとえるとわかりやすいかもしれません。
コンビニグループ(フランチャイズ=都市国家連合)の「邪馬台国グループ(本部は北部九州)」と「出雲グループ」が激しい販売競争を繰り広げ、最終的に邪馬台国グループが勝利して出雲グループを吸収合併した。
その後、グループの業績拡大に伴い、フランチャイズ本部を立地的に有利な大和に移転し、シンボルマーク、制服、社内規定も変更して新たな発展を目指すこととした。
移転に伴い、グループの業績拡大に最も貢献した大和の豪族「天皇家」が、その功績を認められて新たな本部長に就任した…。
ただし、先人の功績を称えるため、「邪馬台国グループ」(当時の「邪馬台」の読みは「ヤマト」)の名前はそのまま残して変更しなかった。このため、大和を「ヤマト」と呼ぶことになった。
同じことは、平成の市町村合併でもよく見られることです。
書いていて思わず笑ってしまったのですが、シナリオ的に現在でも非常にありそうな話ですね(笑)。
少なくとも、邪馬台国が北部九州から大和に移転し、その時点で男系が変わったと考えるよりはずっと自然でしょう。
こうなると、それまでは大和の一豪族に過ぎなかった、神武天皇~開化天皇までの記録がほとんどない理由も理解できます。昔は有名人じゃなかったのだから、そもそも記録がほとんど残っていなかったのでしょう。
もっとも、以上の説明の大きな問題点は、あまりにも話がうますぎて、少々ウソっぽいということです。
余談ですが、卑弥呼の時代の日食については、国立天文台の研究があり、247年には日の出、248年には日の入りに日食が起きています。ただ、以前言われたように、日中に起きた可能性はなさそうで、古代のロマンが一つなくなってしまったのは寂しい限りです。
国立天文台 『天の磐戸』日食候補について
京都大学 ヒミコの日食
その他の参考文献
邪馬台国大研究 →北部九州説激推し
→畿内説激推し
【追記】
そうしたら、大和朝廷が邪馬台国を吸収したという説は結構あるようです…。
この本によると、天皇家は用意周到に閨閥を築いていたらしいので、そういう意味では邪馬台国の支配層も、天皇家とのつながりはあった可能性は高いです。
そういう意味では、関係者はみんな親戚ということなら、「万世一系」はまんざらウソでもなさそうですね…
もう一つ気が付いたのは、天皇家が重要な判断をするときには、必ず神社に使いを派遣していることてす。
有名な話ですが、天武系の天皇のときには、道鏡事件と大仏建立で宇佐神宮に判断を仰いでいます。この神社は、応神天皇と神功皇后が祭神ですから、「皇統断絶」が疑われている継体天皇の子孫である天武天皇は、外部の人間ではないということになります。
余談ですが、明治維新により大政奉還が行われたときにも、ときの明治天皇は崇徳院が没した讃岐にわざわざ使いを派遣しているのです。その後は、京都に崇徳院を祀る白峰神社を創設しました。
つまり、そのときによって、相談する天皇家のご先祖様は違うということになりをます。
その後いろいろ調べましたが、発掘された当時の祭祀物品(銅矛・銅鐸など)や鉄器の分布を見ると、自ずから結論は明らかなようです。
出典 銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
~弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生~
・参考1 時代別にみる人口と鉄器の分布
・参考2 弥生のテクノポリス
出典 邪馬台国大研究
弥生時代の日本は、朝鮮半島南部から青銅や鉄(砂鉄?鉄鉱石?)の原料を輸入していたとのこと。
青銅については、合金を構成する鉛の同位体の分析結果によると、朝鮮半島だけではなく、中国北部からも相当の原料を輸入していた(一部は中国中南部も?)ようで、これがゲノム解析の結果で弥生人に中国北部からDNAが入ってきた理由でしょう。
出典 鉛同位体比分析による古代朝鮮半島・日本出土青銅器などの原料産地と流通に関する研究
松帆銅鐸、最古の埋納か 淡路島から出土
兵庫県南あわじ市で2015年にみつかった弥生時代の青銅器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」の科学分析を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4~前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かった。市教委が[2018年6月]27日発表した。
鉄の原料の輸入については、中国の記録にあるとのこと。
弥生時代は鉄器時代か(No.65)
3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。
青銅器については、出雲を中心とした地域に銅鐸が広まっています。銅鐸は祭祀に使ったと考えられていて、これが出雲系のパワーの源だと思われます。
北部九州+大阪の銅矛(邪馬台国)、出雲+近畿(大阪除く)の銅鐸は文化圏が違うわけですから、この2つの勢力の対立が2世紀の倭国大乱の原因ということでしょう。
【再掲】銅鐸祭祀圏を統合した近畿政権(1)
~弥生の祭祀から見えてくる政治統合と近畿政権の誕生~
この争いは、最終的にはより多くの鉄器が入手可能な邪馬台国側が勝利し、その後の古墳時代になると、ヤマト王権の強大なパワーを誇示するように、巨大な前方後円墳が大和などの近畿地方で続々作られるようになります。逆に、出雲の象徴であった四隅突出型墳丘墓と銅鐸は、歴史の舞台から静かに去って行きました。だから、奈良時代に銅鐸が発見されても、なんだかわからなかったわけです。
出典 四隅突出型墳丘墓(Wikipedia)
それまで、日本の政治経済の中心が北部九州だった理由は、朝鮮半島南部から貴重な資源や技術を輸入していたからでしょう。しかし、その後に日本国内が統一されれば、人口重心に近い近畿地方に遷都した方が有利なことは、考えるまでもなく明らかではないでしょうか。
この一連の過程で、卑弥呼が祭祀を行う女王の地位に就任し、倭国大乱が終息したということになる…はずです。
大和遷都に伴い、習俗や祭祀も変えたわけですから、開化天皇(新しい文化を取り入れる)→崇神天皇(新しい神を崇拝する)という漢風諡号もぴったりですし、考古学的な時代考証もばっちりです。崇神天皇の諱が、始祖を示す「ハツクニシラス」なのにも納得です。
ただ、まだまだ謎は残っています。
邪馬台国が大和に遷都したときに、大和の豪族が天皇家になったのか、それとも北部九州から移動したのか…。また、北部九州から遷都したときに、男系が変わったかどうかもわかりません。
中国の記録では、「後漢書倭伝と魏志倭人伝には、倭国大乱によって倭王の座が移動したとあります」とあるそうです。
邪馬台国の謎を解く年代復元
・もし、中国の歴史書を参考にして日本建国の年を定めるとすれば、西暦57年、倭奴国王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を授かったという、倭の国王に関する最初の記事をおろそかにすることはできません。
・なぜなら、この倭奴国王金印の重みも、239年、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に朝貢し、少帝から授かった親魏倭王金印の重みと少しも変わらないはずだからです。
・その証拠に、後漢書倭伝と魏志倭人伝には、倭国大乱よって倭王の座が移動したとありますが、それ以前に光武帝が承認した倭奴国王の座が移動したという記事はありません。
素直に考えると、大和の豪族だった天皇家が出雲や吉備を吸収合併し、そのまま日本国王に祭り上げられたことになります。これは、「神武東征」や魏志倭人伝にある倭王武の「上表文※」とも整合的です。
※先祖たちの昔からの活躍により、倭国は、東に55国、西に55国、北に95国を平定する大国となった。
現代の会社にたとえるとわかりやすいかもしれません。
コンビニグループ(フランチャイズ=都市国家連合)の「邪馬台国グループ(本部は北部九州)」と「出雲グループ」が激しい販売競争を繰り広げ、最終的に邪馬台国グループが勝利して出雲グループを吸収合併した。
その後、グループの業績拡大に伴い、フランチャイズ本部を立地的に有利な大和に移転し、シンボルマーク、制服、社内規定も変更して新たな発展を目指すこととした。
移転に伴い、グループの業績拡大に最も貢献した大和の豪族「天皇家」が、その功績を認められて新たな本部長に就任した…。
ただし、先人の功績を称えるため、「邪馬台国グループ」(当時の「邪馬台」の読みは「ヤマト」)の名前はそのまま残して変更しなかった。このため、大和を「ヤマト」と呼ぶことになった。
同じことは、平成の市町村合併でもよく見られることです。
書いていて思わず笑ってしまったのですが、シナリオ的に現在でも非常にありそうな話ですね(笑)。
少なくとも、邪馬台国が北部九州から大和に移転し、その時点で男系が変わったと考えるよりはずっと自然でしょう。
こうなると、それまでは大和の一豪族に過ぎなかった、神武天皇~開化天皇までの記録がほとんどない理由も理解できます。昔は有名人じゃなかったのだから、そもそも記録がほとんど残っていなかったのでしょう。
もっとも、以上の説明の大きな問題点は、あまりにも話がうますぎて、少々ウソっぽいということです。
余談ですが、卑弥呼の時代の日食については、国立天文台の研究があり、247年には日の出、248年には日の入りに日食が起きています。ただ、以前言われたように、日中に起きた可能性はなさそうで、古代のロマンが一つなくなってしまったのは寂しい限りです。
国立天文台 『天の磐戸』日食候補について
京都大学 ヒミコの日食
その他の参考文献
邪馬台国大研究 →北部九州説激推し
→畿内説激推し
【追記】
そうしたら、大和朝廷が邪馬台国を吸収したという説は結構あるようです…。
この本によると、天皇家は用意周到に閨閥を築いていたらしいので、そういう意味では邪馬台国の支配層も、天皇家とのつながりはあった可能性は高いです。
そういう意味では、関係者はみんな親戚ということなら、「万世一系」はまんざらウソでもなさそうですね…
もう一つ気が付いたのは、天皇家が重要な判断をするときには、必ず神社に使いを派遣していることてす。
有名な話ですが、天武系の天皇のときには、道鏡事件と大仏建立で宇佐神宮に判断を仰いでいます。この神社は、応神天皇と神功皇后が祭神ですから、「皇統断絶」が疑われている継体天皇の子孫である天武天皇は、外部の人間ではないということになります。
余談ですが、明治維新により大政奉還が行われたときにも、ときの明治天皇は崇徳院が没した讃岐にわざわざ使いを派遣しているのです。その後は、京都に崇徳院を祀る白峰神社を創設しました。
つまり、そのときによって、相談する天皇家のご先祖様は違うということになりをます。
2022-02-06 11:44
コメント(0)
コメント 0