ゲノム解析で解く「邪馬台国」と「空白の4世紀」の謎【追記あり】 [ゲノム解析で古代史]
前回の続きです。
すみません、タイトルは盛ってあるので、ゲノム解析の話はほとんどありません…。
よろしければご覧ください。
その後、暗号山上憶良氏による、邪馬台国の謎を解く年代復元というサイトを発見しました。
これは凄いですね~ (単に私が知らなかっただけ…)。
氏によると、当時の天皇の漢風諡号は、朝貢していた当時の中国皇帝から一字ずつもらって付けていたというのです。
これには驚きました。
具体的には次のとおりです。
57年 神武天皇→光武帝
107年 安寧天皇→安帝
(孝霊天皇→霊帝)
念のため、漢風諡号のバイブルである森鴎外の「帝謚考」を確認してみたのですが、さすがにそんなことは書いてませんでした。
もう一つのポイントですが、神武天皇(倭奴国王)から続いた王朝は、崇神天皇から新たな王朝になり、九州から大和に遷都したそうです。確かに、人心を一新するつもりなら、明治維新の「文明開化」と同じことをやるでしょう。
たとえば、
1. 首都を移転する
2. 服装などの習俗を改める
3. 祭神を改める
そして、このときの天皇は「開化天皇」、王朝が変わったので、その後に別な神(卑弥呼=天照大神)を祭ることになったため、次代は「崇神天皇」となります。
崇神天皇の和風諡号は、初代を示す(神武天皇と同じ)「ハツクニシラス」です。
到底偶然とは思えません。
(百田尚樹氏の「日本国記」では、このことを遠回しに書いていた?)
参考までに、この時期には、なぜか日本では縄文時代からの長年の風習だった入れ墨がなくなっています。大国主命は昔ながらのヘアスタイルと服装ですが、開化天皇からは明らかに変わっています(『御歴代百廿一天皇御尊影』を参照)。
明治維新の富国強兵政策では、東京遷都だけではなく、ちょんまげを廃止し、西洋式の靴と軍服に切り替えたのですから、今も昔も同じことをやっているいるわけです。
馬が初めて日本に導入されたのも、最新兵器という意味があったに違いありません。
ところで、平時なら大したメリットがあるとも思えない大改革を、なぜこのタイミングに行ったのでしょう?
実は、この時期は、気候寒冷化で高句麗が南下し、朝鮮半島南部では馬韓→百済、弁韓→伽耶、辰韓→新羅という中央集権国家が成立しています。
=====================
【前回の再掲】
楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
空白の4世紀の間で日本で何が起こったのか?
3世紀頃のこと。ユーラシア大陸の北部で寒冷化が起こっていたとされています。そのため食糧を求めて民族の動きが活発化(ローマ帝国にまで影響を与えた)、中華帝国も動乱の時代に突入します(日本も卑弥呼亡き後の『倭国大乱』に突入)※。
※だから、日本は海外使節を出す余裕がなく、「空白の4世紀」が生まれたということでしょうかね。
高句麗もその動きに呼応して南下を開始しています。
高句麗は強力な騎馬軍団だったそうです(モンゴルも近いし、何となく馬がたくさんいるのは想像は出来ますね)。
そこでとった行動が
百済・伽耶 → 倭国に協力を求める
新羅 → 高句麗に下る でした。
=====================
当然、日本ではどう対応するのかという問題が発生するはずです。
常識的に考えると、九州王朝内部で対応方針を巡って政争・派閥抗争が発生→開化天皇派が勝利→大和遷都→朝鮮半島に軍事介入…となると、史実とも一致しますし、理屈も合います。九州だと、朝鮮半島から近いので、攻撃される危険性が高くなりますからね。
そして、中央集権的な軍事大国を目指すことになった大和朝廷は、当然ながら有力な地方政権を潰しにかかります。たとえば、当時は一大勢力だった出雲の大国主命に「国譲り」を強要し、大和朝廷の勢力下に置きます。このため、出雲地方を中心とした銅鐸文化は衰退します。
出典:出雲大社
また、国民に権力を誇示するために、次々と巨大な天皇陵を建設します。これは、徳川家康が大阪城を再建したのと同じです。
出典:堺市博物館
なるほど~。
しかし、数々の戦略ミスも重なり、その後は徐々に朝鮮半島南部から追い詰められ、天智天皇のときに白村江で敗戦を迎え、最終的には全面撤退という苦渋の選択をせざるを得ませんでした。
この敗戦処理の過程で、朝鮮半島介入継続派の天智天皇は、和平派で九州王朝末裔の天武天皇に内戦で破れ、またもや政権交代が起きます。
政権奪取に成功した天武天皇は、新しい政権を正当化するため、いままでなかった長大な「日本書紀」を編纂し、以後はこれが日本の正史となります。
その後、しばらくすると、天武天皇の系統は称徳天皇で絶え、天智天皇の末裔の光仁天皇から系譜が戻ることになります…。
まぁ、本当かどうかはともかく、ストーリーとしては極めて面白く魅力的ですね。自画自賛するようですが、一応は論理的一貫性もあります…
ただ、ちょっと疑問に思ったのは、内戦=天皇家内部の争いだから、天皇家男性のY遺伝子のハプロタイプは、縄文人由来のD1bでもいいのじゃないかと思います。そういう意味では、「万世一系」には違いなのではないでしょうか?
こうなると、光仁天皇、光格天皇、継体天皇のような、相当世代の離れた男系を即位させているのにも納得です。天武天皇が宗家から何代離れていたのか知りませんが、当時の常識から言って、神武天皇と全く違う家系なら、新天皇に即位してもほとんど納得しないような気がします。内戦が再発するのではないでしょうか?
それは、現在の状況を見ればあまりにも明らかでしょう…。
私はそう思います。
井沢元彦氏が小説に書いてくれないものでしょうか?
【追記】
もう一度考えたら、邪馬台国は九州以外はありえないですね。魏に朝貢するとなると、使者の安全な通行ルートが確保できるとは思えません。
当時の日本は小国が並立し、統一政権はなかったはずです。仮に邪馬台国が近畿地方のどこかだすると、どうやって魏まで行けばいいのでしょうか?
陸路なら、日本国内に敵対する国があったら迂回するしかありません。実際に、時代が下った遣唐使では、新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島を陸路で通行できませんでした。やむなく、より危険な海路を使ったので難破する確率が増えたのです。
海路も、当時の技術では沿岸航行しかできないはずですから、陸路と同様に制海権を押さえないといけません。魏の使者を迎える場合も同様です。
考えてみれば当たり前です!
前漢・後漢があった時代は、朝鮮半島に楽浪郡を置いていましたし、その後の魏でも帯方郡を置いていました。つまり、当時の朝鮮半島南部の支配者との関係が悪くなければ、対馬を経由すれば比較的簡単に朝貢できたことになります。
【再度追記】
高句麗が南下して新羅・百済への圧迫が目立つようになるのは、広開土王碑にあるように4世紀後半で、九州北部から大和に遷都したのは3世紀半ばですから、上の説は一部修正が必要になるようです…
修正版はこちら。
すみません、タイトルは盛ってあるので、ゲノム解析の話はほとんどありません…。
よろしければご覧ください。
その後、暗号山上憶良氏による、邪馬台国の謎を解く年代復元というサイトを発見しました。
これは凄いですね~ (単に私が知らなかっただけ…)。
氏によると、当時の天皇の漢風諡号は、朝貢していた当時の中国皇帝から一字ずつもらって付けていたというのです。
これには驚きました。
具体的には次のとおりです。
57年 神武天皇→光武帝
107年 安寧天皇→安帝
(孝霊天皇→霊帝)
念のため、漢風諡号のバイブルである森鴎外の「帝謚考」を確認してみたのですが、さすがにそんなことは書いてませんでした。
もう一つのポイントですが、神武天皇(倭奴国王)から続いた王朝は、崇神天皇から新たな王朝になり、九州から大和に遷都したそうです。確かに、人心を一新するつもりなら、明治維新の「文明開化」と同じことをやるでしょう。
たとえば、
1. 首都を移転する
2. 服装などの習俗を改める
3. 祭神を改める
そして、このときの天皇は「開化天皇」、王朝が変わったので、その後に別な神(卑弥呼=天照大神)を祭ることになったため、次代は「崇神天皇」となります。
崇神天皇の和風諡号は、初代を示す(神武天皇と同じ)「ハツクニシラス」です。
到底偶然とは思えません。
(百田尚樹氏の「日本国記」では、このことを遠回しに書いていた?)
参考までに、この時期には、なぜか日本では縄文時代からの長年の風習だった入れ墨がなくなっています。大国主命は昔ながらのヘアスタイルと服装ですが、開化天皇からは明らかに変わっています(『御歴代百廿一天皇御尊影』を参照)。
明治維新の富国強兵政策では、東京遷都だけではなく、ちょんまげを廃止し、西洋式の靴と軍服に切り替えたのですから、今も昔も同じことをやっているいるわけです。
馬が初めて日本に導入されたのも、最新兵器という意味があったに違いありません。
ところで、平時なら大したメリットがあるとも思えない大改革を、なぜこのタイミングに行ったのでしょう?
実は、この時期は、気候寒冷化で高句麗が南下し、朝鮮半島南部では馬韓→百済、弁韓→伽耶、辰韓→新羅という中央集権国家が成立しています。
=====================
【前回の再掲】
楽しくわかりやすい!?歴史ブログ
空白の4世紀の間で日本で何が起こったのか?
3世紀頃のこと。ユーラシア大陸の北部で寒冷化が起こっていたとされています。そのため食糧を求めて民族の動きが活発化(ローマ帝国にまで影響を与えた)、中華帝国も動乱の時代に突入します(日本も卑弥呼亡き後の『倭国大乱』に突入)※。
※だから、日本は海外使節を出す余裕がなく、「空白の4世紀」が生まれたということでしょうかね。
高句麗もその動きに呼応して南下を開始しています。
高句麗は強力な騎馬軍団だったそうです(モンゴルも近いし、何となく馬がたくさんいるのは想像は出来ますね)。
そこでとった行動が
百済・伽耶 → 倭国に協力を求める
新羅 → 高句麗に下る でした。
=====================
当然、日本ではどう対応するのかという問題が発生するはずです。
常識的に考えると、九州王朝内部で対応方針を巡って政争・派閥抗争が発生→開化天皇派が勝利→大和遷都→朝鮮半島に軍事介入…となると、史実とも一致しますし、理屈も合います。九州だと、朝鮮半島から近いので、攻撃される危険性が高くなりますからね。
そして、中央集権的な軍事大国を目指すことになった大和朝廷は、当然ながら有力な地方政権を潰しにかかります。たとえば、当時は一大勢力だった出雲の大国主命に「国譲り」を強要し、大和朝廷の勢力下に置きます。このため、出雲地方を中心とした銅鐸文化は衰退します。
出典:出雲大社
また、国民に権力を誇示するために、次々と巨大な天皇陵を建設します。これは、徳川家康が大阪城を再建したのと同じです。
出典:堺市博物館
なるほど~。
しかし、数々の戦略ミスも重なり、その後は徐々に朝鮮半島南部から追い詰められ、天智天皇のときに白村江で敗戦を迎え、最終的には全面撤退という苦渋の選択をせざるを得ませんでした。
この敗戦処理の過程で、朝鮮半島介入継続派の天智天皇は、和平派で九州王朝末裔の天武天皇に内戦で破れ、またもや政権交代が起きます。
政権奪取に成功した天武天皇は、新しい政権を正当化するため、いままでなかった長大な「日本書紀」を編纂し、以後はこれが日本の正史となります。
その後、しばらくすると、天武天皇の系統は称徳天皇で絶え、天智天皇の末裔の光仁天皇から系譜が戻ることになります…。
まぁ、本当かどうかはともかく、ストーリーとしては極めて面白く魅力的ですね。自画自賛するようですが、一応は論理的一貫性もあります…
ただ、ちょっと疑問に思ったのは、内戦=天皇家内部の争いだから、天皇家男性のY遺伝子のハプロタイプは、縄文人由来のD1bでもいいのじゃないかと思います。そういう意味では、「万世一系」には違いなのではないでしょうか?
こうなると、光仁天皇、光格天皇、継体天皇のような、相当世代の離れた男系を即位させているのにも納得です。天武天皇が宗家から何代離れていたのか知りませんが、当時の常識から言って、神武天皇と全く違う家系なら、新天皇に即位してもほとんど納得しないような気がします。内戦が再発するのではないでしょうか?
それは、現在の状況を見ればあまりにも明らかでしょう…。
私はそう思います。
井沢元彦氏が小説に書いてくれないものでしょうか?
【追記】
もう一度考えたら、邪馬台国は九州以外はありえないですね。魏に朝貢するとなると、使者の安全な通行ルートが確保できるとは思えません。
当時の日本は小国が並立し、統一政権はなかったはずです。仮に邪馬台国が近畿地方のどこかだすると、どうやって魏まで行けばいいのでしょうか?
陸路なら、日本国内に敵対する国があったら迂回するしかありません。実際に、時代が下った遣唐使では、新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島を陸路で通行できませんでした。やむなく、より危険な海路を使ったので難破する確率が増えたのです。
海路も、当時の技術では沿岸航行しかできないはずですから、陸路と同様に制海権を押さえないといけません。魏の使者を迎える場合も同様です。
考えてみれば当たり前です!
前漢・後漢があった時代は、朝鮮半島に楽浪郡を置いていましたし、その後の魏でも帯方郡を置いていました。つまり、当時の朝鮮半島南部の支配者との関係が悪くなければ、対馬を経由すれば比較的簡単に朝貢できたことになります。
【再度追記】
高句麗が南下して新羅・百済への圧迫が目立つようになるのは、広開土王碑にあるように4世紀後半で、九州北部から大和に遷都したのは3世紀半ばですから、上の説は一部修正が必要になるようです…
修正版はこちら。
2022-01-30 16:19
コメント(0)
コメント 0