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日本と朝鮮半島をめぐる古代史のメモ [ゲノム解析で古代史]

時間がないので、とりあえずの備忘録です。
そのうち、もっとわかりやすく書き直したいと思いますが、できるかな…。

ゲノム解析の結果は、このサイトがわかりやすいです。

弥生人DNAで明らかになった日本人と半島人の起源
-朝鮮半島に渡った縄文人-


bbb.PNG

気が付いた範囲で、このサイトの内容を補足しておきましょう。

【1】縄文土器は朝鮮半島南岸でも出土されるが、非常に数が少ない

これは、朝鮮半島に縄文人が住んでいなかった有力な物証とされます。
おっかし~なぁ~と思っていたのですが、逆転の発想で解決した…はずです[たらーっ(汗)]

おそらく、7300年前の鬼界カルデラ大噴火後には、生き残った九州の縄文人の一部が、当時人口空白地帯だった朝鮮半島にまで逃れたのでしょう。
(火山灰が数十センチ降り積もった南九州は、ほぼ全滅の模様です[もうやだ~(悲しい顔)])

この結果、土器については、人間とは逆に、当時の朝鮮半島の縄文人を通じて、北方の製法が日本に「逆輸出」された可能性が高いと思います。

Wikipediaで調べると、

曽畑式土器
熊本県宇土市の曽畑貝塚からはじめて出土した土器である。縄文時代前期(鬼界カルデラ大噴火後)の標式土器であり、九州や沖縄から見つかっている。朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。しかしその作り手はおそらく北方系の櫛目文土器の担い手[つまり朝鮮半島の縄文人]ではなく、轟B式土器の分布の範囲で、曽畑式土器が作られるようになることから、轟B式土器の作り手である南方性海洋性民族(南島系海人族[つまり縄文人])の担い手が、櫛目文土器の造り手(ウラル系民族)との接触により、影響を受けたものと考えられる。

櫛目文土器
櫛歯状の施文具で幾何学的文様を施した土器の総称である。器形は尖底あるいは丸底の砲弾形が基本的である。新石器時代においてユーラシア大陸北部の森林地帯で発達し、バルト海沿岸、フィンランドからボルガ川上流、南シベリア、バイカル湖周辺、モンゴル高原、遼東半島から朝鮮半島に至るまで広く分布する。

轟B式土器
九州地方を中心に中国地方西部、山陰地方、朝鮮半島南岸まで広がる約6000年前の土器である。

とあります。

ただし、曽畑式土器が櫛目文土器に似ているのは外見だけで、製法は「見よう見まね」であまり似てないそうです。

また、満州ブログには、

轟B式・曽畑式土器
熊本県の宇土市の轟貝塚では、アカホヤの層の下から轟A式土器、上から轟B式土器という、同じ系統の土器が見つかる
これは、轟貝塚の住人が鬼界カルデラの爆発で全滅しなかった事、火砕流が宇土市周辺にまで達しなかった事を意味する。
轟貝塚は有明海に突き出た宇土半島にあるが、周辺の人々は、火山灰の被害から逃れるため、轟B式とともに、海へ進出した。

とあります。

【2】アイヌは日本の先住民族なのか

アイヌ人は、弥生時代に入って人口希薄となった北海道に進出し、遺伝子的にはオホーツク人と縄文人が混血した可能性が高いようです。

アイヌ語は、言語学的には日本語と別系統の言語です。
Wikipediaの項目「アイヌ語」によると、方言が少ないことから、西暦1300年ごろに祖語から分化したのではないかとのこと。これは、メガジャーナルのPLOS ONEの査読付き英語論文になっています。
本当だとすると、日本の先住民族はやはり縄文人で、アイヌは1000年足らずの歴史しかないことになりますね。

そういうこともあり、アイヌ語と日本語は別系統の言語であり、やはり別民族のようです。
沖縄語と日本語は同系統だから同一民族ですが、日本人とアイヌは別民族と考える方が素直なのです。
実際に、国立科学的博物館ではそう主張していますが、今後どうなるかはわかりません…。

DNAからみた縄文人ㅣ神澤秀明 博士(日本 國立科學博物館)
14:10 最近の研究によって、必ずしも「アイヌ=縄文人ではない」

前述のように、アイヌ語は西暦1300年ごろから広まった(らしい)というのは事実です。
また、アイヌに伝わるコロボックルという伝承が史実を反映しているとすると、

1.アイヌは先住民族ではない。
2.北海道の先住民族はコロボックルと呼ばれる小柄な民族(小柄な縄文人)である。
3.コロボックルには南方由来の習俗である文身(刺青)をしていた。
4.コロボックルとアイヌが係争した後、海を渡っていなくなった。
5.現在、北海道にある縄文遺跡は、アイヌ人のものではなくコロボックルたちのものである。

https://wiki3.jp/famousdna/page/22 の注1

前述の神澤氏の動画によると、アイヌは遺伝子的にはオホーツク人と縄文人の混血のようです。
なお、これらは、ゲノム解析の結果とも整合します。

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出典:縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く

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出典:縄文人の核ゲノムから歴史を読み解く

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出典:拙Twitter

【3】任那日本府はあったのか

任那日本府というのは、ずいぶん前の教科書に載っていましたが、相当昔にそういう記述はなくなってしまいました。
しかし、いままでのゲノム解析が正確で、数千年前から朝鮮半島南部に縄文人が住んでいたとすると、任那日本府が存在したと考える方が自然です。

アイヌも含め、古代日本人のゲノム解析は、イデオロギーの呪縛が極めて大きいようです。
前述の動画も、ソースは日本ではなく「韓国」のサイトです。
理由は簡単で、この縄文人のシリーズの後に弥生人が来るのですが、予想できるように日本人のDNAは「渡来人」がメインだとあることです。
ゲノムからみる弥生時代人 I 神澤秀明 博士(国立科学博物館)

この動画によると、現代日本人のDNAで縄文人由来のものは10%程度とのこと(つまり、残りは全部渡来系…)。

実際に、韓国南部Janghangの縄文時代(6300年前)の人骨のDNAを調べたところ、現代日本人とほぼ同じでした。

Janghang.jpg

ところが、下の2019年の東大の研究によると、現代日本人のY染色体を調べると、少なくとも1/3ぐらいは縄文系に多い系統1です。

ohashi002.png

あまりにも割合が食い違うので、もう一度考えてみました。

実は、縄文人とのDNAの一致度は、基本的に全DNA(ゲノム)で調べています。縄文人だって現代人だって個人差は大きいはずです。
仮に、現代人の個人間のDNAの一致度を調べたとしても、絶対に100%になるはずがありません(笑)。逆に、サンプルが少なければ10%という数値が出ても不思議じゃありませんし、計算方法から考えても、時代がたてばたつほど一致度は低下するはずです。

これは、DNAの一致度を計算する場合は、単純計算で出た数字は当てにならないということです。誰も疑問に思わかったんでしょうか。
(うまくモデルを作ればいいのですが、私の頭では思いつきません…)

結論ですが、Y遺伝子は時代によって変化しないので、どう考えても我々は1/3以上(半分ぐらい?)は縄文人なわけです。こんな感じで、新型コロナと同じく、従来の定説を「まとも」に信じるのは相当危険ということになりますね[たらーっ(汗)]

【4】中国北部の遺伝子の影響

前述の動画によると、日本人のDNAは、稲作到来までは中国中部(長江流域)の影響が強く、その後は中国北部の影響が強くなっているようです。

ゲノムからみる弥生時代人 I 神澤秀明 博士(国立科学博物館)

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稲作到来後には、百済滅亡や白村江の敗戦などの朝鮮半島動乱により、何回か大人数が渡来してきました。弥生時代より中国北部の影響が強くなったのはこのせいなのかもしれません。

【5】ヤマト王権の成立時期と朝鮮半島の国々

前述のように、縄文人が朝鮮半島南部に数千年前から住んでいて、日本本土と交流があったとすると、ヤマト王権の成立時期は、朝鮮半島南部の国家成立と同じか、それより前ということになります。

なぜなら、朝鮮半島南部より国家成立が遅れると、軍事的に攻め込まれる可能性が高いからです。

現実は、広開土王碑にあるように、西暦400年ごろに日本は既に高句麗と戦っていました。これは、少なくとも4世紀半ばまでには、半島に大軍を送り込むほどの強力な統一国家が成立していたということになります。

逆のことも言えます。紀元1世紀ごろには日本にこれほどの力はなかったということです。
新羅や百済の初代の王は、紀元1世紀前後に即位したと推測されているので、神武天皇もほぼ同時期に即位したのではないでしょうか。

参考までに、推古天皇以前は、春秋年(春と秋に各1年なので、現在の1年が2年となる※)を採用していたとすると、神武天皇の即位時期は紀元前1世紀ごろとなり、新羅や百済の初代の王とほぼ一致します。

※春秋年は、魏志倭人伝の裴松之による注釈にも記述がある。

これは、戦争に明け暮れた近代ヨーロッパの国民国家成立の過程によく似ています。

フランス革命で国民国家が最初に成立し、傭兵制から徴兵制に切り替えたフランス軍は、名将ナポレオンの指揮の下、強力なパワーであっという間に全ヨーロッパを席巻します。

この影響で、それまで小国が分立していたドイツやイタリアでも、フランスに負けじと短期間で国民国家が成立しました。

逆に、国民国家に乗り遅れた国は、戦争に勝てないので悲惨な末路を迎えます。

このアナロジーから考えると、紀元前1世紀頃に日本、新羅、百済などが建国し、いずれも4世紀半ばから強力な統一国家を形成したのは、偶然ではなく必然ということなります。そうしないと、国が滅亡するのだから当然です。

これは、「空白の4世紀」にヤマト王権が成立したこととも、時期的にぴったりです。

統一国家形成に唯一乗り遅れたのが任那日本府=加羅で、昔のままの小国分立体制では、強力になった半島の他国に勝てるはずがありません(現地に強力な国家ができるのは、ヤマト王権が許さなかった?)。最終的には、日本からの援軍もむなしく、白村江で統一新羅に完敗し、その後に日本の影響力は半島から一掃されることなります。

この敗戦の結果、日本人男性はほとんどが殺害されたらしく、縄文人で最も多かったY遺伝子の系統1=ハプロタイプD1bは、朝鮮半島からほぼ姿を消すことになります。対して、女性はそれほど殺害されなかったためか、遺伝子全体で見ると縄文系の影響は現在まで色濃く残っています。

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(再掲)

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(再掲)

なお、天皇家のY遺伝子は縄文系(らしい)とのことで、縄文系の土着日本人が、中国渡来の最新技術と習俗を採用し、日向から出て日本を制覇したと考えると、明治維新と共通するものを感じます。日本神話を素直に読むと、天皇家が中国から来たとするより、その方が自然ですね。

縄文人は入れ墨をしていたはずですから、これはある時点で廃止し、着ている服も百済経由の「呉服」を採用したはずです。人心一新を目指すなら、明治維新と同じで国家体制が変わるときなんでしょうね、たぶん。

以上が、ゲノム解析、史実、土器などから推測される、もっとも確からしい日本と朝鮮半島をめぐる古代史の概要です。とは言っても、私の勝手な推測も相当含まれていますが…。

首を長くして待ってますから、井沢元彦氏が「シン・逆説の日本史」[本]ででも書いてくれないかなぁ~。
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