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血液型に肯定的な論文は日本語で発表してはダメ!? [サイト紹介]

しばらくWikipediaの「血液型性格分類」を見ていなかったので、さっきチェックしたら驚くべきことが書いてありました。

それは、10月15日 8:56の変更で、「今日の心理学会では血液型性格分類の有効性を支持する意見は少数意見であり、学会誌の査読を通過することは一般にできない」ということです。

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が削除された部分、が追加された部分です。

なお、変更の理由は、「wikipediaガイドライン:中立的観点に基づき見出しを変更。少数派の意見をさも通説のように扱うことは方針に反します」とあります。

そんなの当たり前じゃないかと思う人もいるかもしれませんが、これは日本だけに見られる現象です。
英語論文なら「関係がある」という論文もチラホラ見かけます。
また、日本語の論文でも、査読がないなら「データの差」は認めている論文は結構あります。

しかし、日本語の論文で査読があるものだけは、このWikipediaにあるとおりで、データの差があることさえ認めていないのです。

この奇妙な現象は、たとえば金澤正由樹さんの「血液型人間学のエッセンス」に“ミステリーゾーン”があるとして、こう紹介されています。
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血液型人間学のエッセンス 心理学でわからなかった謎にせまる

血液型人間学のエッセンス 心理学でわからなかった謎にせまる

  • 作者: 金澤 正由樹
  • 出版社/メーカー: 文芸社
  • 発売日: 2017/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

日本の心理学会には「血液型によりデータの差がある」とは言えない雰囲気が存在し、査読者が逆らえないということなのであろうか?(p217)

そして、その傍証としてWipediaにある清水さんらのこの論文を取り上げ、

血液型によってデータに差があるとか、あるいは血液型と性格に関係がありそうだなどどいう論文が査読をパスして専門誌に掲載される可能性は……ほとんど100パーセントないだろう。(p220)

と結論付けています。

では、日本だけこんな「ガラパゴス」的な査読を続けるとどうなるか?
結果は明らかで、かつては世界一だった日本のエレクトロニクス産業がアメリカや中国に完敗したように、日本の心理学界のガラパゴス化がどんどん進むということになります。
非常に残念なことですが…。

現実に、上の表に紹介されている土嶺章子さんらの論文は、英語で執筆されて海外のオープンアクセス誌に掲載されました。
そういう例がどんどん増えてくるはずです。
清水さんも、英語で発表すれば論文が掲載されたのではないでしょうか?

これは私が思いつきで言っているのではありません。
たとえば、日本社会心理学会には、「国際誌論文データベース」というページがあり、こう説明があります。

日本の社会心理学者たちは,活発な研究活動を展開・公表しており,その成果は日本語による論文であれば例えば日本社会心理学会の機関誌である「社会心理学研究」等の学会誌に掲載され,また学術書として公刊されています.一方,当然のことながら学問に国境はなく,特に近年では国際的な論文誌や書籍にその成果が掲載されることも増えてきました.しかし,こうした国際的成果をくまなく知ることは,あまりにそのフィールドが広いためにあまり容易ではありませんでした.
そこで,このページでは,日本の社会心理学者による国際的な研究活動の成果を広く共有・広報するために,日本社会心理学会会員による国際査読誌や書籍に掲載された学術論文(2013年以降に公刊されたもの)を,会員の皆様からの自薦・他薦の情報提供にもとづいて,あるいは,広報委員が不定期にPsycINFO, GoogleScholarなどを使って渉猟して,掲載しています.書誌情報は,メールニュース等の媒体でもご案内します.

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単刀直入に言えば、日本の心理学界がどんどん空洞化するということです。
そして、最終的に「黒船」が来港して…。

「血液型と性格」は、ほとんど日本オリジナルの研究なのに、実に残念だというしかありません。
ただ、時代の趨勢には逆らえないので、私もそろそろ“日本脱出”の準備をしないといけないようです…。[あせあせ(飛び散る汗)]

コメント(8) 

コメント 8

欺善者

外国人の査読ありの欄が朝鮮人ばかりですね。その内、彼らの研究として世の中の常識になるかも知れません。何でも「ウリジナル」にされてしまいます。ところで、沈み行く泥舟から脱出して移住、じゃなくて、軸足を移されるんでしょうかね。日本語で人間性を表現するだけでも大変ですが。

by 欺善者 (2019-10-21 19:28) 

ABOFAN

参考までに、私が知っている範囲では、韓国人以外の論文にはこんなものがあります。

・Cattell, R. B., Young, H. B., Houndelby, J. D. Blood groups and Personality traints. American Journal of Human Genetics, 16-4, pp. 397-402, 1964
・Cattell, R. B., Brackenridge, C. J., Case, J., Propert, D. N. & Sheehy, A. J. The relation of blood types to primary and secondary personality traits. Mankind Quarterly, pp35-51, 21-1, 1980
・Swan, D. A., Hawkins, G. & Douglas, B. The ralationship between ABO blood type and factor of personality among South Mississipi 'Anglo-Saxon' school childern. Mankind Quarterly 20-3&4, pp. 205-258, 1980
・Jogawar, V. V. Personality correlates of human blood groups. Personality and Individual Differences, 4-2, pp. 215-216, 1983
・Eysenk, H. J. National differences in personality as related to ABO blood group polymorphism. Psychologycal Reports, 41, pp 1257-1258, 1977
・Eysenk, H. J. The biological basis of cross-cultural differences in personality: Blood group antigens. Psychological Reports, 51, pp. 531-540, 1982
・Lester, D. National distribution of blood groups, personal violence (suicide and homicides), and national charcter. Personality and Individual Differences, 8-4, pp. 575-576, 1987
・Beardmore, J. A., Karimi-Booshehri, F. ABO genes are differentially distributed in socio-econimic groups in England. Nature, 303, pp. 522-524, 1983
・Wu, Kunher, Lindsted, Kristian D., Lee, Jerry W. Blood type and the five factors of personality in Asia, Personality and Individual Differences, 38, pp.797–808, 2005

また、英語などへの自動翻訳については、この記事を読んでみてください。

AI翻訳が人間超え、言葉の壁崩壊へ 日経エレクトロニクス 2019年9月号
https://abofan.blog.ss-blog.jp/2019-09-29

なお、血液型と性格についての分析方法は、土嶺章子氏の論文が参考になります。

Shoko Tsuchimine,Junji Saruwatari,Ayako Kaneda,Norio Yasui-Furukori
ABO Blood Type and Personality Traits in Healthy Japanese Subjects
https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0126983

by ABOFAN (2019-10-22 07:31) 

欺善者

最近のエントリーなので勿論読んでますが、誰でも英語で発信出来るということですね。リンクの英文をGoogle翻訳を通して読みましたが、5年位前の酷い文法と違いかなり自然な翻訳で読みやすかったです。翻訳に限らず、益々テクノロジーに依存して人間の思考力や創造力が劣化するようになるなと思いながら。

その内容は、相変わらず「自然現象か否か」という視点しか無く、血液型関係者も含めてほぼ全員が基本的な勘違いをしていますが、能見説は自然科学ではありません。正しくは、「血液型文明人学」、さらに、「血液型日本人学」と言うべきもので、正確に言うと、本能的な自然の野性の上に人為的な文化性が加わった現象です。もし、どうしても自然科学だと強弁したいなら、「血液型原人学」として人間の野性だけを抜き出して考えるしかありません。文明社会に於いて観察可能なら、ですが。

純粋な自然現象そのままではない人為的影響が混じった文明的な人間性を、統計という自然科学の手法を用いた「有意差」の有無によって、「(自然)科学か否か」という不毛な論争を、延々と繰り返してきたのが血液型と性格の歴史ですが、科学は自然現象か人為的現象かを区別せず教えてくれないので、導き出された結果をそのまま自然の法則だと鵜呑みにするのではなく、論理的に検証するしかありませんが、それを怠ってきました。

自然科学の生物学的な自然現象と違う、人文社会科学の分野である人間の文化的現象も含めて、その法則性を統計的に捉えることは可能なので、血液型と性格に関係があることは証明されたと思います。しかし、遺伝子に刻まれた自然の法則と違い、人為的な文化現象である以上、時と環境によって文化的な性質部分が変化するのは当然であり、それが否定派と食い違う理由でもあります。

能見氏は、血液型ごとに共通する気質は生まれる前からの先天的な性質として、環境などの後天的要因には左右されないものと定義していました。しかし、血液型の気質とされた能見説をよく考えてみると、文化・文明性を帯びたものであることに気付きます。ここが一番難しい所なのですが、果たして人間の自然そのままの性質がどれだけあることか、文明社会に於いては文化的性質の方がずっと多く、自然的性質と人為的影響から複合的に形成されたものが人間の性質だと思います。しかし、人為的部分は先天的ではありません。

日本人を分析した血液型の気質を全人類共通の気質としてしまうことと、自然現象と文化的現象が混じった複合的性質を、自然の法則として自然科学だとしている能見説ですが、shozoさんの御意見や疑問、反論など何でも良いので是非お聞かせ下さい。このような話が分かるのはshozoさん以外には知りませんが、shozoさんは能見氏と同じく工学部の出身なので、そういった見地からも意見が聞きたいのです。呉々も「数字ガー」とか沈黙はやめて下さい(笑)

by 欺善者 (2019-10-22 21:57) 

欺善者

肝心な部分を書き忘れたので少し補足を。「本能的な自然の野性」と書きましたが、血液型に関係なく全ての人間に共通する感情や欲望などの本能を指しているのではなく、経験や学習、教育などに左右されず、教えられたり何の努力をしなくても、先天的に持っている性質という意味です。本能や野性と表現すると、前者のことをイメージしてしまうかも知れないですが、本能と同様に先天的な性質という意味で、文明的影響が一切無い「素のまま」という意味の「自然人」のことです。血液型原人学と言うと語弊があるかも知れませんが、自然の法則だけの動きしかしない人間と表現すると分かりやすいかと思います。

血液型と性格の関係が、自然現象か以前の問題で、データだの、統計だの、MANCOVAだの、遺伝子だの、染色体だの、ゲノムだの、神経伝達物質だのと、科学の迷路に迷い込んで、皆、頭が馬鹿になっていますが、後天的な人為的、文化的影響が混じっていると分かっていたら、文化現象を自然科学だの統計だのと云々するのが馬鹿馬鹿しくなってくるでしょう。いや、文化的影響を排除しているつもりなのかも知れませんが。

血液型も心理学も「非自然科学」という視点は皆無で、論点は「(自然)科学か否か」の一点のみで、過剰なまでに科学的であることを意識し、科学が絶対条件であるかのようですが、自然現象ではない文化的な思想や精神論に対して、「非科学的」だとアレルギー的に拒否反応してはいませんか。
まるで、科学は非科学的なものを魔女狩り的に糾弾する宗教のようなもので、否定派が血液型を否定するイデオロギーのようですが、例えば、もし天気予報が「科学」を名乗っていたら、人々は科学だからと当てにして、外れたら非科学的だと糾弾するに違いありません。政治や経済の予測も科学だとは名乗りませんから。

能見説は自然科学ではない、と表現したのは分かりやすく表現するためで、正確に言うと「純粋な自然科学ではない」という意味です。人為的な要因が混じってしまったらそれだけで純粋な自然現象とは言えなくなるので。心理学でよく言う「バイアス」と同じです。
という訳で、能見説が自然科学ではなく、文化的影響が混じっているのに、自然現象か否か、という論争を続けていることに対して、どうしてもshozoさんの考えや異論・反論が聞きたいのです。

by 欺善者 (2019-10-23 18:50) 

ABOFAN

>どうしてもshozoさんの考えや異論・反論が聞きたいのです。
「まず隗より始めよ」はご存じですよね?
by ABOFAN (2019-10-23 21:55) 

欺善者

笑わせてどうするんですか(笑)。何とツレないお言葉で。。
だから私からウンザリする程始めてるじゃないですか。
自分の意見を求められることを嫌がる何とからしいですね。
余り深く考えず、感想でもケチでも何でも構いません。
by 欺善者 (2019-10-23 22:09) 

ABOFAN

東大の須藤靖先生が書いた『主役はダーク-宇宙究極の謎に迫る』の内容を紹介します。量子力学的な説明では、「電子」には決まった形はなく、(原子核の周りに)確率的に分布していることになっています。
【引用開始】
高エネルギー(超高速と言っても良い)粒子加速器を用いて未知の素粒子を発見しようとしている物理学実験グループを訪問し、「電子は本当に存在するのですか」と質問した哲学者(?)がいたとかいないとかいう話を聞いたことがある。
物理学者「もちろんです。ここでは毎日、膨大な数の電子を加速してぶつけることで世界最先端の研究を展開しています」
哲学者「では、電子とはどんな形をしているのですか?」
物理学者「電子には形はありません」
哲学者「その大きさは?」
物理学者「大きさもありません」
哲学者「それじゃ到底見たとは言えませんね。存在する証拠になっていません」
物理学者 「この実験施設では、物理学の基礎方程式にしたがって電子を加速させ衝突させることが可能です。そもそも、あなたの身の回りのあらゆる電子機器を制御し利用できること自体が、電子の存在の完璧な証明じゃないですか」
哲学者「それは理論を説明するために仮想的に考えた概念としての電子であり、それが実在するということの証明にはなっていません。私は自分の目で直接見たもの以外は信じられません。本当に電子を見たことがある人をここに呼んできてください。私はその人と直接話をしたいのです」
物理学者「やれやれ。我々はそのような不毛な議論をするほど暇ではありません。実験が忙しいのでそろそろお引き取りください……」
このやりとりを通じて、哲学者は勝ち誇ったように結論する。物理学者は電子を発見したというが、実際に「見た」人は誰もいない。つまり、電子とは物理学者が勝手にでっち上げた便宜的な概念にすぎず、実在している証拠はないのだ、と。
【引用終了】
by ABOFAN (2019-10-24 06:44) 

欺善者

合理主義者らしくコピペとは酷い手抜きですね。要するに、暇じゃない、忙しい、コピペで充分、と。他人の受け売りとはいえ、一応、有り難う御座います。何処かで見たことある文章だと思ったら、西洋科学者の「哲学者は暇だ」と揶揄したくだりじゃないですか。人のものを丸ごと借用する辺り、自分の頭で考えていないので須藤氏のレベルが窺い知れますね。自分の意見が無いのでしょうか。要するに最終的には公理だと。

「自分の目で直接見たもの以外は信じられない」「勝ち誇ったように結論する」という思考パターンは余りにも単純過ぎるので、恐らくは科学者の哲学に対する苛立ちを表現した例えではないかと思います。何れにせよ、暇だの忙しいだのと「非科学的」な論理な訳ですが。
どうやら須藤氏はそのような思考が苦手なようですが、科学の理論を批判されるのは許せないのか、彼は哲学者に対して感情的に反発してますね。科学と哲学は相互に補完し得るもので、哲学は違う物の見方や理論の盲点を教えてくれる欠かせないものだと思うのですが。

科学も哲学もそれ自体が学問ではなく、何か主題を与えられないと始まらないですが、どちらを欠いても駄目だということが日本の科学者には分からないのでしょうか。欧米には科学+哲学(科学哲学ではなく)の優れた学者が多いので、自然科学は偽の法則と呼ばれているのです。
近似や予測という統計の確率的な意味ではなく、科学も人間の思考が生み出す人文学的な文化現象の一つである以上、時と場合によって結果が変化するものなので、永遠に真理には到達出来ないという意味です。

常識を疑い物事の本質を探究していくほど、両者は近接していくと思います。科学の定義や方法など条件自体が考え方であり、科学も哲学の一つなのですから。人間に性格という思考の習性があって、物を考える限り哲学とは無縁でいられません。哲学など関係ないとどれだけ忌み嫌おうと、物の見方、考え方のことですから。そんなに嫌いなら、血液型を破壊できたら忌まわしい哲学から逃れられるかも知れません。高度な科学文明もまた、人間の精神文化的、哲学的な思考の産物でもある訳ですが。

科学だの、哲学だの、統計だの、理論だのと、どれだけ高尚で難解な理論を振り回したところで、正しくなければ無意味です。哲学は物の見方や考え方を探究することですが、理系馬鹿だの、文系馬鹿だの、理論・法則に思考が拘束されて間違っていたら何の意味もありません。何故、人間が物の見方、考え方を巡って振り回されてしまうのか、性格という習性を持っている宿命ですね。


ところで、思想や哲学の話をしているのではなくて、血液型人間学そのものの話をしているんですが、論点がズレてます。自然現象と文化現象という視点がなく、DNAに刻まれた自然の法則なのか有意かどうかと、一生懸命計算ばかりしていたとしたら滑稽ですよね。両者を厳密に区別し切れなくても、混じっている時点で既に自然現象ではないので。自然現象とは何か、よく考えてみると自然科学が偽の法則という意味が分かるかも知れません。

しょうがないのでshozoさんの論理を追ってみると、

「どんなにおかしな理論でも、現実の数字が説明できれば正しい」
「何でも数字に置き換えられる」
「血液型と性格、血液型と病気ならほとんどは数値化可能」
「数字や理論なら憶測ではない」

要するに、理論や方程式に当て嵌めて割り切るという、既存の枠の中でものを考えていることが分かりますが、合理的というのは物事の理に合わせるということで、理論に杓子定規に忠実であろうとするんでしょうか。ここで言う理論とは「能見説」のことですが、裏切れないと。能見説の誤りを指摘することは裏切りではないと思うんですが、気質上、何ともならないんでしょうか。

ついでに、shozoさんは数字に拘る人ですが、過去の数字ネタの記事への疑問を素通りしたり、数字の解釈の仕方について当時から疑問を持っていました。

古畑種基氏に関する記事
「B型からA型の子供が生まれないわけはないが、確率としては低い」

"世界で最も美しい顔ベスト100"に関する記事
「特に血液型の特徴は見られない」

という分析のことです。もしかして数字しか見ていなかったとか。
暇じゃない、忙しいということで「睡眠薬」にならないと良いんですが。

by 欺善者 (2019-10-24 19:38) 

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