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BLOGOS顛末記

読売新聞の記事に刺激されて、BLOGOSに2件ほど記事が出ました。

松田公太 2014年07月20日 13:00
なぜ日本で血液型診断が流行ったか
http://blogos.com/outline/90881/
[8/9現在の意見112件]

赤木智弘 2014年07月26日 08:10
ニセ科学の連鎖は続く
http://blogos.com/article/91249/
[8/9現在の意見301件]

私も参戦したのですが、何も議論にならないうちに相手が引っ込んでしまったようです。[パンチ]

この記事を書いた人も、意見をした人も、おそらく誰も原典の縄田論文を読んだ様子はありません。
特徴的なのは、血液型は怪しげな“ニセ科学”というイメージだけで、上から目線で否定するというパターンが大半であることです。
ですから、私からの質問「原典を読んだのですか」「実際に検算をしてみましたか」は予想外だったらしく、反対者のすべてが沈黙してしまいました。
推測するに、BLOGOSの否定派は、原典を読まないのではなく、統計的検定がわからない(内容がわからない)のかもしれません。
だから、私の質問にも答えられないので沈黙するしかしないと…。(失礼!)
そういう意味では、否定派、あるいは心理学者のイメージ戦略は成功していると言えるでしょう。[たらーっ(汗)]

#「白い航跡」に似ているのかもしれませんね。

最後に、「ニセ科学の連鎖は続く」に書いた私の意見を抜粋しておきます。


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もう一度縄田氏の論文を読み直してみたのですが、論文中の「血液型と性格に関する心理学研究」にはこうあります。

なお,血液型間の有意差が見られた国内研究としては,山岡(1999, 2006)や Sakamoto & Yamazaki(2004)が挙げられる。…つまり,血液型性格判断を信じることが自身の性格(少なくともその認知)を変化させるといえる。

ランダムサンプリングなら、日本人で血液型と性格に関係があると思っている人は約7割でから、現実に差が出ていないなら、縄田講師の「質問項目が悪い」(元々差が出ない項目だった)と考えるしかありません。

更に奇妙なのは、「考察」に次のように書かれていることです。

本研究は,2000年代のデータで血液型間の差は見られないことを示した。そのため,血液型と性格に社会的な意味での関連が生まれる予言の自己成就は起きていなかった。

しかし、前述のように「血液型と性格に関する心理学研究」で紹介している、山岡氏(2006)のデータは2000年代のものです。山岡氏は、差が出ているのは“思い込み”のせいだと明確に書いてあります。

血液型による性格の違いは、現実のものではなく、マスコミ情報に影響された思い込みであると結論づけられる。

ですので、これは明らかに縄田氏の考察「2000年代のデータで血液型間の差は見られないことを示した」とは矛盾します。
やはり、「質問項目が悪い」から差が出なかったと考えるしかありません。
何とか細胞じゃないですが、本当に大丈夫なのかな?

(08月03日 12:16)


とりあえずのまとめです。
血液型と性格の議論はタブー化しているのは明らかです。
例えば、“非科学的”な私が、文献を100本以上読んで、縄田講師の論文の計算を検算して、他の論文のデータを比較しているのに、“科学的”な人はこれらは全く無視です。また、“科学的”な反論は上から目線というのも特徴です。
議論のポイントは統計なので、自分で計算すれば「関係ある」という結果は明らかなんですが…。(笑)

ただ、あちこちでデータに基づく反論を地道に繰り返せば、ある程度の効果はあります。
少なくとも「小さな関連」が否定できないのは、ほぼ多数意見になりました。
これは、「統計的に差がある」が否定できなくなったので、「大きな関連」に問題をすり替えているわけです。
では、「小さな関連」はどうかと質問すると、“回答拒否”か“興味がない”のだそうです。おかしいですよね?

そもそも「大きな関連」があるなんて、真面目な研究者なら誰も言ってません。
誰も言ってないことを否定するのはおかしいのですが、血液型と性格の関係性を絶対に認めたくないということなら、それはそれで合理的な行動です。(笑)

科学的な議論に*しない*ポイントはもう1つあって、否定派の人達は「関係がある」と認める条件を絶対に示さない、ということがあります。
その理由は、「関係がある」と認める条件を出してしまうと、統計的には既に決着済みなので「関係がある」ことを認めざるを得ないからです。
だから、BLOGOSでも、否定派の人達は忠実にこの原則を守っています。(笑)
だから、とにかく“回答拒否”が多いのです。

血液型と性格は、井沢元彦氏のいう「穢れ」なので、まともに相手をしないのが、“科学的”な態度ということになります。
あるいは、明治的啓蒙主義、あるいは儒教的伝統というべきなんでしょうね。
その限界が見事に現れている議論と感じます。

(08月04日 02:42)


補足です。血液型と性格の研究は、心理学者自身もタブーだと言っています。

■佐藤達哉+渡邊芳之+尾見康博氏 『心理学論の誕生』(2000年)

今の大学生が興味を持つようなことを卒論で取り扱おうとしても、なかなか認めてもらえないことが多い。
「超能力は存在するか」なんてことはとにかくタブーなのである。
いわゆる血液型性格判断についても同様である。やってはいけない。
血液型性格判断ブームの研究については近年事情が変わってきたが、タブーとなるテーマであることは変わりがない。

■渡邊芳之氏 『現代のエスプリ~血液型と性格』(1994年)

 ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法によって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
 しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており…

また、言霊の影響で正しい議論が出来ないことは、井沢元彦氏が指摘しています。
否定派がなぜデータを無視するのか、その理由はやはり「言霊」や「空気」でしょう。

■井沢元彦氏 言霊(1991年)

 自己の信条や思想にかかわらず、現実に存在するものは存在すると認めるのがリアリズムである。きわめて当たり前の話である。ところが日本ではしばしば、その当たり前のことが当たり前にならなくなる。その極端な例が冒頭に採りあげた帝国陸軍で、「アメリカの軍事力、強大な経済力」は無視(ないと思えば実際になくなる)し、「自軍の実力や軍備」については、員数主義(名目上存在すれば存在する)を採る。これで戦争を始めればどうなるか、負けるのは決まりきった話である。

一々引用はしませんが、同じことを山本七平氏が「空気の研究」で指摘しています。

(08月04日 03:20)
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